Monthly Archives: agosto 2021

LAYOVER―待機する作品:ボゴタと福岡をつなぐ回路

南米コロンビア在住の美術作家らによる写真、映像作品を集めたLayover―待機する作品:ボゴタと福岡をつなぐ回路―展を開催いたします。貧富の格差や数多くの政治的課題に直面してきたラテンアメリカ諸国では、アートの制作が作家の政治的、社会的関心を表現する重要な手段として位置付けられており、広い社会のなかの個人のありかたやアイデンティティーについて批判的に考えてゆくための活動として高等教育や大学でも非常に重視されています。今回のLayover展が、ラテンアメリカの現状に視野を拡大しつつアートと日常、社会的アクションとの関係性を再考する糸口となれば幸いです。

art space tetra (http://www.as-tetra.info)
2021年8月18日ー22日

イベント詳細: http://www.as-tetra.info/archives/2021/210818230004.html

展示作品一覧

Adrian Preciado アドリアン・プレシア―ド
x, y, z
ビデオ、3分59秒
2019

ベネズエラ、コロンビア国境の街サンクリストバル出身、ボゴタ在住。ベネズエラ、ロスアンデス大学 (Universidad de los Andes) にて美術を専攻。Bienal del sur (サウスビエンナーレ)など30以上のグループ展に参加、複数の個展を開催。

ベネズエラ出身の作者は、近年のベネズエラ経済危機による国民の海外流出という現象に多様なメディアを通じ取り組んでいる。本映像作品ではベネズエラ、コロンビア、ペルーの3か国が交わるアマゾン地域の国境を視覚化しようと試みるパフォーマンスの記録映像である。最終のアルファベット記号であるx,y,zに象徴されるように、先住民共同体が散在し密林の中に位置するこの国境地帯は三か国すべてにおいて国家権力の中心から遠い辺境であり、そうした意味でこの地域の日常における国境線の重要性は相対的なものとなる。作家によれば、地図上ではただの記号でしかない国境も経済危機に瀕する国の市民にとっては死活問題であり、自らの生や生命の可能性を規定するものとなる。そうした意味で国境をひとつの「線」としてマテリアルに現前させ同時にそれを消去するパフォーマンスは、グローバルな現象としてのパンデミック下で忘れられがちなコロンビア国内の移民やマイノリティーに対する関心を呼びかけるものと言えるのかもしれない。

Andrea Galindo アンドレア・ガリンド
Sobreviví  生き延びた
ビデオ、3分27秒 
2018

ボゴタ市ロスアンデス大学 (Universidad de los Andes) でデザインと美術を専攻。都市の日常や大衆文化を題材に作品を制作。

誰でもときに映画の主人公であるかのように振舞いたくなる瞬間がある、と語る作者は、トイストーリーのメインキャラクター、ウッディの衣装を身に着け、街に出る。コロンビアにおいても若者の多くがハリウッド映画をはじめとする北米の大衆視覚文化の影響を受けて育ったことは言うまでもない。しかしながら本作は作者の「映画の主人公のように振舞う」という意図を超え、ボゴタ都市空間の「影」ともいうべき部分をシャープに描き出す。たとえば、不揃いの靴を履きほとんど使われなくなった鉄道線路を歩くウッディは、農村出身の労働者や路上生活者の姿と重ねられる。またまるで子供のように都市のインフラストラクチャーと戯れる行為は、マージナルな生活者にとってのこの都市で十全な政治参加をすることの困難さを浮き彫りにする試みだとも言える。

Andrés Jaramillo アンドレス・ハラミージョ
Capas レイヤー
ビデオ、3分9秒
2021

コロンビアでは2021年4月28日に始まる税制改革に反対を表明するストライキをきっかけに、市民による街頭デモが全国に広がった。本作品は、同年5月から6月の間警察や軍隊の特殊部隊による一般市民への暴力行為がエスカレートする文脈で制作された作品である。コロンビア政府の公式YouTubeチャンネルにて公開されている国歌の映像に警官特殊部隊との対立やデモに参加する市民の表情、叫びをコラージュした本作品は、独立の勝利を讃える国歌が描く理想郷としてのコロンビアがいかに政治的エリートの作り上げた虚構であるかを鋭く告発している。「なぜ政府は若者の声に耳を傾けず弾圧行為に走るのか」という訴えは、未来に対する若い世代のフラストレーションを切実に代弁していると言える。

Danilo Estacio ダニロ・エスタシオ
Todo arde (すべてが燃える)
ビデオ、5分6秒
2020

ナリニョ大学大学院「アートとコンテクスト」プログラム在学中。2018年コロンビア・リージョナル・サロン・オブ・アーティスツ(南部エリア)のレジデンスプログムに参加。グループ展参加多数。

2019年11月に発生したコロンビア全国ストライキにインスピレーションを受けた映像作品。マッチ棒を一本ずつパネルに埋め込むことでコロンビア国家の領土を形作り、点火するとコロンビアに見立てられた平面が瞬間的に強い閃光を放って燃え尽きる。親米かつネオリベラルな流れを汲む現政権に対し抵抗を表明することが個々の市民の間に伝染していくことのメタファーとも捉えられるが、伝染という意味ではこの作品がパンデミックの只中であった2020年に制作されたものであることを考えると興味深い。いずれにせよコロンビアは2021年4月28日、再度の全国ストライキをきっかけに一時的な社会混乱期に突入する。本作は、そのような権力への異議申し立てというコンテクストにおいてソーシャルライフや市民の間の対面コミュニケーションの必要性が再度問われている現状とも深く関連するはずである。

Edith Benavides エディス・べナビデス
Cartografía カルトグラフィー
ビデオ、4分49秒
2020

ナリニョ大学大学院「アートとコンテクスト」プログラムに優待奨学生として在学中。パスト市Pinacotecaで個展を開催(2018)するほか、コロンビア国内で複数のグループ展に参加。

作家の育ったコロンビア地方都市の家族(ファミリア)に共有される記憶を、姉と妹の対話を軸に内側から描き出す試みである。制作のきっかけは、作家が幼少期の自分が当時家に住みついていた一匹の猫と一緒に写った写真を偶然見つけたことだった。現代的な意味での愛玩動物(ペット)というよりは、ただ偶然家に住みつき日常のなかに存在していた無名の猫。この猫に象徴されるような未だラベリングされない、無名に近い性質の記憶をたどることで個人的記憶と集合的記憶の接点、また記憶という曖昧模糊とした現象に言葉を通じて名前を付与していく行為の意味が批判的に考察される。そこでは、記憶 動物、人間、家族、関係性と言った言葉で編み上げられる家族愛に対する一種のステレオタイプやカトリック教の影響を受けた社会規範の彼方にある経験の豊かさが示唆され、動物と人間との共感というテーマについても、そうした言葉の生み出す弁別性の向こうにある現象に焦点が置かれているように思う。

Geovana Ponce へオバナ・ポンセ
Vestigios 痕跡
ビデオ、2分28秒
2020

ナリニョ大学大学院「アートとコンテクスト」プログラムに奨学生として在学中。女性の身体性や母親としてのアイデンティティーを中心に制作。コロンビア国内外で映像作品を展示

未だ男性優位の思考が支配するラテンアメリカ社会の日常や、そうした保守的な指向がコンテンポラリーアートの実践に及ぼす影響に向き合いつつ作品を発表し続ける作家は、DavidとJuanという異父兄弟の母親でもある。作家によれば、本映像作品は、そうした異父兄弟の母親としての作家に対する根強い社会的偏見に応答することが制作のきっかけとなったという。映像の中で向き合いお互いを正面から見据えるDavidとJuanの間の短い対話はこの兄弟の紐帯意識や、日常生活においてお互いが不可欠でありかつ各々が相互に自身の鏡であるような親近感を端的に表現していると言える。カトリック教に規定された伝統的にな家族(ファミリア)や家族愛といった規範とは別個の平面での兄弟関係ありかたを母親の視点から可視化する試みである。

Ingrid Cuestas イングリッド・クエスタス
La carne no viene en bandeja お皿に盛られた肉の彼方に
ビデオ、1分54秒
2016

ハベリアナ大学 (Universidad Javeriana)で美術を専攻。コロンビアのほかブラジルなどでグループ展やアーティスト・イン・レジデンスプログラムに参加。

作家はこれまでアクティヴィスト、料理人として、モンサント社の農薬による土壌汚染や過剰採掘による地盤沈下など、ラテンアメリカ大陸における多国籍企業の経済搾取やそれに付随する自然環境へのダメージなどを告発してきた。本作品では「食べること」―我々の本能的欲求に基づく消費行動―や、ラテンアメリカ固有の家庭(hogar) における分かち合い(compartir)や親密さが表現される場としての食卓、もしくはそうした場で調理された肉が盛られるお皿(bandeja)の彼方で、多くの命が犠牲になっていると言う事実を強力かつ端的な映像言語で告発するものである。

John Benavides ジョン・べナビデス
Carta a un amigo japonés 日本の友人への手紙
ビデオ、2分36秒
2021

カウカ大学学院にて人類学博士号取得。ナリニョ大学大学院教授。同大学にて革新的な大学院プログラム「アートとコンテクスト」の設立を主導

アーティスト、リサーチャーとして文化人類学とアートの境界領域で仕事をしてきた作者は近年コロンビア、とくに自らが拠点としエクアドルと国境を接する最南部ナリニョ地方の政治や社会状況について作品を発表している。本作品は哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)の公開書簡『日本の友人への手紙』(1983)にインスピレーションを得、エクリチュールと暴力について語るインタビュー音声を引用しながら、コロンビアと日本両国における文字通りの暴力の歴史や、西欧・北米中心のアカデミアにおけるヒエラルキーの中でコロンビアと日本両国における批判的思考の系譜がいかに周縁に追いやられてきたかを訴えることを目指している。

Proyecto Nómadas プロジェクト・ノマダス
写真110枚
多様なサイズ
参加作家: Alex Urrego, Daniel Castañeda, David Tovar, Diego Cano, Eddy Martín, Fernando Murcia, Guillermo Camargo, Ismael Barrios, Javier Vela Sepúlveda, Jenny Martínez, Takaaki KJ, Yeins Gil
特別招待作家: Ovidio González

ボゴタは語られることの少ない街だ。人口800万を誇るコロンビアの首都かつ最大の都市でありながら街の大部分はただそこに住み淡々と日常をこなすためだけに存在し 、ツーリスト的付加価値のある『場所』として対象化されることがあまりない。

市民の大半がボゴタについて口にするのは大気汚染や、非効率な公共交通機関のシステム、赤道から至近距離であるのにもかかわらず寒く曇りがちな気候、大都市特有のインパーソナルな接客、泥棒の多さなど愚痴であることが多く、一方で市当局が推進する「ヒューマンなボゴタ」というスローガンは抽象的に過ぎてボゴタがいったいどんな街なのか具体的な像を結ばない。在住外国人や旅行者にしても、気候も良く何かと話題に事欠かない第二の都市メデジンについては多くを語るが、ボゴタについては「首都だし職探しに便利だから」などプラクティカルな話ばかりになる。

あまり褒められることのないボゴタだがそこにはとにかく800万人以上の人々が暮らし、セントロ(ダウンタウン)、チャピネロ、ソナGなどきわめて限定された商業文教地区の外側には無名の住宅地や倉庫街、高層団地などが広がっており、そこは外国人ばかりでなくローカルな住民の大部分にとってほとんど知られざる場所となっている。

2021年2月、アートディストリクトNodo51の一部として写真家Takaaki KJによって立ち上げられたこのプロジェクトは、このように明確なアイデンティーが欠落しがちなボゴタという都市と写真を通じて対峙する試みである。プロジェクトはアーティストや多様な職業を持つメンバーによって構成され、毎週日曜日ボゴタ市内の中心部から南部を中心に様々なルートをカメラやスマートフォンで撮影しながら歩く。この実践を通じ、同一の「場所」に注がれる複数の視線における差異を検証することで、それぞれのネイバーフット固有のアイデンティティー再構成に寄与することを目指す。2021年2月14日にTeusaquillo地区で第一回目が行われ、現在までほぼ毎週日曜日に開催されている。本写真作品は2月から現在まで、約半年間の共同作業の成果を要約するものである。

興味深いことに、世界中の大都市でロックダウンが行われ日常生活のバーチャル化が進行するなか、ボゴタでは4月上旬に一時的な外出制限や部分的な自宅待機令が出たほかは、バーチャルからリアルな対面性へと状況はむしろ逆方向に推移してきたように思える。このことは4月28日に勃発した全国ストライキににともない街頭デモや混乱がボゴタ各地やコロンビア各都市に広がったことの帰結として、感染防止を理由に自宅待機を求める様々な言説や規制がまったく意味を持たなくなったことと関連している。その正否は置いておくとしても、この過程は国家権力に異議申し立てをするプロセスにおいて、身体を持つ一人もしくは複数の人間が街に立ち声をあげることの重要不可欠性を証明することになった。パンデミックから一時的なロックダウンへ、そして破壊活動や警察部隊による弾圧をともなう政治的混乱の時期へ、2021年2月から8月を通じ、このフォトプロジェクトはメンバーや規模を多少変動させながらも継続し現在に至っている。

ステートメント 2021-8-11

敢えてキュレーターとしての立ち位置から自身の作品を眺めたとき、そこには作家と「場所」との間に友好的な関係性を打ち立てることが模索されているように感じます。20代以降、東南アジア、米国、メキシコ、コロンビアなど幸運にも多くの国に住む機会に恵まれたわけですが、そのことの一番大きな収穫は自分の人生にとっての「原点」といえるような瞬間がたくさん生まれたことではないかと考えています。パンデミックの影響のなか、もしくはそうした社会的事象とは無関係に人の生には迷いや行き詰まりがつきものなわけですが、そうした場面で立ち返る地点がたくさんあることーつまりそれぞれの国で生活を始めた初期、日々の記憶が書き込まれていく以前の、場所が未だ「まっさら」だった時期の気持ちに立ち返り何かをやり直すことができること―はこれまでとても有益なであったような気がしています。これまでの人生を通じて、自分はこのようないくつもの場所と原初的な体験で結びつくことを模索してきたのではないか、という思いがあります。

個人的な話になりますが、物心ついたころから学校や家庭と言ったノーマルな場所にはなかなか同一化することができない感覚的な不一致があり、本当に「安心できる」場所は電車やバスの中、路地と言った半ば匿名の、人類学者マルク・オジェが「非場所」と形容したような場所だったような気がしており、そのようなさまざまな場所と折り合いをつける必要性と向き合うことは日本を離れ15年経った今も変化がないような気がしています。そのように、自分にとっていろいろな場所を訪れそこに住もうとすることは、特定の場所と特別の関係を結ぼうとすること、通俗的な言い方をすれば自分の「居場所」を確保したいという欲求が奥底にあったのではないかと考えています。そこで場所は必ずしも日常的に明白な理由があって訪れ、通る場所とは限らず、自分がそこに存在するということの重みを測るための探知機のようなものであったのかもしれません。

そうした経緯から、北米の無機質なハイウェイや、中南米諸国の人でごった返す市場やバスターミナルなどで場所を凝視しカメラに収めることで、日々の目的性や実用性を引きはがされたいわば「生」の場所のありようを自分なりに模索してきたような気がします。人々がある一定の目的を果たすために外に出て街を歩くこととは別の、「場所」へのかかわり方の可能性が示唆されているように思われる一枚の写真。それはある場所に自分が存在しているという事実を、目的性ではなく、カメラで「写真を撮ること」によって正当化するプロセスと言っても良いかもしれません。買い物、通院、どこかでお茶を飲むこと、アートギャラリーに作品を見に行くこと、目的は何であれ自宅や普段いる場所を出て別の場所へ移動することで、何かが起きる、つまり社会的に受容されている「出かけることの目的」を果たすことのみに還元できない「場所」を経験することによる主体の有意味な変容があるのではないか。

ところで場所を経験するということは同時に、複数の場所同士の関係性やそれらが連続継起するさまに注意を払うことでもあります。当然ですが場所はそれ単体で存在するものというよりは、複数の場所を通り抜けていくことー移動や旅―によってはじめて現前するものであり、ある場所に至る仕方、つまり「経路」ということが重要な意味を持ってきます。私は写真家として、巡礼や観光というテーマにずっと興味を抱いています。四国88カ所霊場巡りでも、パリやニューヨークと言った都市で観光客がさまざまなサイトを歩いてまわることでもよいのですが、これら有名史跡や名所を巡ることで得られる「場所」の経験は何も個々の名所そのものに由来する知識や感慨には限定されず、より広範なものであるような気がしているのです。地下鉄やタクシー、徒歩でこれらのサイトを繋ぐルートを移動することで観光客や巡礼者はこれらの「場所」をむすぶルート―無数の場所の集合ーを経験するはずであり、そうした経験全体がひとつの「旅」の印象を形作っているわけです。

最後に私が提案したいのは、このような長く記憶に残るような「豊かな」場所経験の仕方は、何も海外旅行をしたり新しい場所を好奇心いっぱいで訪れる観光客や巡礼者の特権などではなく、自分が住んでいる国や街、もしくは自宅の近所などでも実現することが可能なのではないかということです。つまり、経路という主題を注意深く精査することで、場所の経験の仕方が変わってくるのかもしれない、ということです。そしてそうした「場所」の経験にフォーカスしたプロジェクトとして、これまでボゴタ市内を中心に一見無意味なサイトを目的地とする観光ツアーともいうべき、Nodo51フォトウォーク(#salidafotonodo51) を2021年2月より主催しています。