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SIN HÉROES NI TROPAS

SIN HEROES NI TROPAS

Hace varios años un teórico de la antropología fue severamente criticado por argumentar la hibridad cultural latinoamericana con un tono admirador, para resaltar, según la palabra de sus oponentes, la ¨exótica¨ diversidad racial-cultural del continente.

Según estos académicos, hablar sobre la hibridad latinoamericana debe estar ligado con reconocimientos sobre el innegable legado, en el cual dicha diversidad o la necesidad diaria de convivir con el otro, tiene sus orígenes en una violencia, aquella que se ha venido perpetuando a lo largo de la historia de la colonización. Señalan que, la noción de lo híbrido debe entenderse como el producto de la implantación de los aparatos institucionales desde el eurocentrismo, así como las estructuras de la subordinación económica sometidas a los intereses del mercado, dentro del cual las entidades multinacionales juegan un rol decisivo ante el destino de la democracia de cada estado.

Teniendo presente el mapa actual del continente comparable a lo que el filósofo ruso Mikhail Bakhtin (1895-1975) nombró como heteroglossia, marcado por diversas rupturas y voces que narran desde divergentes contingencias sociales y condicionamientos históricos, ¿cuál será la posición de un artista contemporáneo quien se niegan a sumar a aquellos que creen en la magia de la inevitabilidad histórica? Si el rol de una crítica social consiste en re-imaginar el presente con base en una reflexión sobre la posible trayectoria a través del tiempo que hubiera tomado una sociedad en crisis, dicha re-imaginación se debe ejercer desde las vivencias de quienes han atravesado e interiorizado dichas rupturas, como el caso de la artista e investigadora Linda Phillips, quien reside y trabaja entre Caracas y Bogotá.

Distinguida por su formación y carrera pedagógica en el arte y la estética, la artista se vio involucrada dentro de la crisis económica que ha atravesado Venezuela desde el año 2013, desplazándose en el 2017 a Colombia por vías terrestres, un suceso que ha tenido impactos cruciales en su producción visual actual. Al igual que muchos de los inmigrantes venezolanos que dejaron su país natal después de la crisis, para la artista el primer reto al reanudar sus oficios artísticos en el nuevo terreno cultural fue enfrentarse con las adversidades económicas.

Desde su residencia en Bogotá, e inspirada en dicha experiencia del desplazamiento Phillips ha presentado una serie de proyectos importantes, uno de ellos siendo Abstracción Sensible (2017-2019) piezas de pequeño formato intervenidas con esmalte de uñas de diversos colores, y marcos irregulares.

Los esmaltes adquiridos por la artista se encuentran de venta en las calles, un producto de imitación que es consumido por mujeres de la clase más humilde. La artista ha identificado un elemento profundo de indagación en estos frascos de esmalte, la sustancia que diariamente adorna las manos de las mujeres del sector más popular. En Abstracción sensible, la artista transforma los esmaltes en el material clave para sus producciones creativas e intervenciones sobre lienzos, las cuales se pueden entender como una analogía del quehacer cotidiano de dichas mujeres, quienes cada día viven en una sociedad azotada por la constante crisis. Se evidencia que la interiorización de la estética y la autoimagen femenina promovida por las grandes marcas internacionales, no exclusivamente se entiende como el acto de sumisión, sino también de la implícita negociación identitaria.

En otra de sus series titulada El Parlache, la artista utiliza su cuerpo como una fisonomía de la violencia, o un sitio donde se entrecruzan su corporalidad y las huellas de agresiones contra la mujer en una sociedad patriarcal, expresadas en diferentes palabras tomadas del dialecto de la sociedad más marginal de la ciudad de Bogotá. Mediante el uso del formato instantáneo de la fotografía, la serie demuestra como dichas jergas transcritas sobre una superficie tangible, puestas contra el cuerpo femenino nos impactan de forma indeleble, al percibirse en relación con un contexto de intimidad, impacto que muchas veces se desconoce por el sector acomodado de la sociedad latinoamericana.

Con la consciencia forjada desde su experiencia en las teorías del arte así como el inesperado transito desde Venezuela a Colombia, países vecinos con los antecedentes ideológicos marcadamente dispares, las obras de Linda Philips nos conducen a una reflexión sobre uno de los orígenes claves de la sociedad actual e híbrida que vivimos día a día, o una realidad marcada no solamente por la diferencia y la diversidad, sino también por la inconmensurabilidad de voces y miradas, proyectadas desde las tácticas y conocimientos vivenciales para poder habitar en una heteroglossia.

Takaaki KJ
Curador

LAYOVER―待機する作品:ボゴタと福岡をつなぐ回路

南米コロンビア在住の美術作家らによる写真、映像作品を集めたLayover―待機する作品:ボゴタと福岡をつなぐ回路―展を開催いたします。貧富の格差や数多くの政治的課題に直面してきたラテンアメリカ諸国では、アートの制作が作家の政治的、社会的関心を表現する重要な手段として位置付けられており、広い社会のなかの個人のありかたやアイデンティティーについて批判的に考えてゆくための活動として高等教育や大学でも非常に重視されています。今回のLayover展が、ラテンアメリカの現状に視野を拡大しつつアートと日常、社会的アクションとの関係性を再考する糸口となれば幸いです。

art space tetra (http://www.as-tetra.info)
2021年8月18日ー22日

イベント詳細: http://www.as-tetra.info/archives/2021/210818230004.html

展示作品一覧

Adrian Preciado アドリアン・プレシア―ド
x, y, z
ビデオ、3分59秒
2019

ベネズエラ、コロンビア国境の街サンクリストバル出身、ボゴタ在住。ベネズエラ、ロスアンデス大学 (Universidad de los Andes) にて美術を専攻。Bienal del sur (サウスビエンナーレ)など30以上のグループ展に参加、複数の個展を開催。

ベネズエラ出身の作者は、近年のベネズエラ経済危機による国民の海外流出という現象に多様なメディアを通じ取り組んでいる。本映像作品ではベネズエラ、コロンビア、ペルーの3か国が交わるアマゾン地域の国境を視覚化しようと試みるパフォーマンスの記録映像である。最終のアルファベット記号であるx,y,zに象徴されるように、先住民共同体が散在し密林の中に位置するこの国境地帯は三か国すべてにおいて国家権力の中心から遠い辺境であり、そうした意味でこの地域の日常における国境線の重要性は相対的なものとなる。作家によれば、地図上ではただの記号でしかない国境も経済危機に瀕する国の市民にとっては死活問題であり、自らの生や生命の可能性を規定するものとなる。そうした意味で国境をひとつの「線」としてマテリアルに現前させ同時にそれを消去するパフォーマンスは、グローバルな現象としてのパンデミック下で忘れられがちなコロンビア国内の移民やマイノリティーに対する関心を呼びかけるものと言えるのかもしれない。

Andrea Galindo アンドレア・ガリンド
Sobreviví  生き延びた
ビデオ、3分27秒 
2018

ボゴタ市ロスアンデス大学 (Universidad de los Andes) でデザインと美術を専攻。都市の日常や大衆文化を題材に作品を制作。

誰でもときに映画の主人公であるかのように振舞いたくなる瞬間がある、と語る作者は、トイストーリーのメインキャラクター、ウッディの衣装を身に着け、街に出る。コロンビアにおいても若者の多くがハリウッド映画をはじめとする北米の大衆視覚文化の影響を受けて育ったことは言うまでもない。しかしながら本作は作者の「映画の主人公のように振舞う」という意図を超え、ボゴタ都市空間の「影」ともいうべき部分をシャープに描き出す。たとえば、不揃いの靴を履きほとんど使われなくなった鉄道線路を歩くウッディは、農村出身の労働者や路上生活者の姿と重ねられる。またまるで子供のように都市のインフラストラクチャーと戯れる行為は、マージナルな生活者にとってのこの都市で十全な政治参加をすることの困難さを浮き彫りにする試みだとも言える。

Andrés Jaramillo アンドレス・ハラミージョ
Capas レイヤー
ビデオ、3分9秒
2021

コロンビアでは2021年4月28日に始まる税制改革に反対を表明するストライキをきっかけに、市民による街頭デモが全国に広がった。本作品は、同年5月から6月の間警察や軍隊の特殊部隊による一般市民への暴力行為がエスカレートする文脈で制作された作品である。コロンビア政府の公式YouTubeチャンネルにて公開されている国歌の映像に警官特殊部隊との対立やデモに参加する市民の表情、叫びをコラージュした本作品は、独立の勝利を讃える国歌が描く理想郷としてのコロンビアがいかに政治的エリートの作り上げた虚構であるかを鋭く告発している。「なぜ政府は若者の声に耳を傾けず弾圧行為に走るのか」という訴えは、未来に対する若い世代のフラストレーションを切実に代弁していると言える。

Danilo Estacio ダニロ・エスタシオ
Todo arde (すべてが燃える)
ビデオ、5分6秒
2020

ナリニョ大学大学院「アートとコンテクスト」プログラム在学中。2018年コロンビア・リージョナル・サロン・オブ・アーティスツ(南部エリア)のレジデンスプログムに参加。グループ展参加多数。

2019年11月に発生したコロンビア全国ストライキにインスピレーションを受けた映像作品。マッチ棒を一本ずつパネルに埋め込むことでコロンビア国家の領土を形作り、点火するとコロンビアに見立てられた平面が瞬間的に強い閃光を放って燃え尽きる。親米かつネオリベラルな流れを汲む現政権に対し抵抗を表明することが個々の市民の間に伝染していくことのメタファーとも捉えられるが、伝染という意味ではこの作品がパンデミックの只中であった2020年に制作されたものであることを考えると興味深い。いずれにせよコロンビアは2021年4月28日、再度の全国ストライキをきっかけに一時的な社会混乱期に突入する。本作は、そのような権力への異議申し立てというコンテクストにおいてソーシャルライフや市民の間の対面コミュニケーションの必要性が再度問われている現状とも深く関連するはずである。

Edith Benavides エディス・べナビデス
Cartografía カルトグラフィー
ビデオ、4分49秒
2020

ナリニョ大学大学院「アートとコンテクスト」プログラムに優待奨学生として在学中。パスト市Pinacotecaで個展を開催(2018)するほか、コロンビア国内で複数のグループ展に参加。

作家の育ったコロンビア地方都市の家族(ファミリア)に共有される記憶を、姉と妹の対話を軸に内側から描き出す試みである。制作のきっかけは、作家が幼少期の自分が当時家に住みついていた一匹の猫と一緒に写った写真を偶然見つけたことだった。現代的な意味での愛玩動物(ペット)というよりは、ただ偶然家に住みつき日常のなかに存在していた無名の猫。この猫に象徴されるような未だラベリングされない、無名に近い性質の記憶をたどることで個人的記憶と集合的記憶の接点、また記憶という曖昧模糊とした現象に言葉を通じて名前を付与していく行為の意味が批判的に考察される。そこでは、記憶 動物、人間、家族、関係性と言った言葉で編み上げられる家族愛に対する一種のステレオタイプやカトリック教の影響を受けた社会規範の彼方にある経験の豊かさが示唆され、動物と人間との共感というテーマについても、そうした言葉の生み出す弁別性の向こうにある現象に焦点が置かれているように思う。

Geovana Ponce へオバナ・ポンセ
Vestigios 痕跡
ビデオ、2分28秒
2020

ナリニョ大学大学院「アートとコンテクスト」プログラムに奨学生として在学中。女性の身体性や母親としてのアイデンティティーを中心に制作。コロンビア国内外で映像作品を展示

未だ男性優位の思考が支配するラテンアメリカ社会の日常や、そうした保守的な指向がコンテンポラリーアートの実践に及ぼす影響に向き合いつつ作品を発表し続ける作家は、DavidとJuanという異父兄弟の母親でもある。作家によれば、本映像作品は、そうした異父兄弟の母親としての作家に対する根強い社会的偏見に応答することが制作のきっかけとなったという。映像の中で向き合いお互いを正面から見据えるDavidとJuanの間の短い対話はこの兄弟の紐帯意識や、日常生活においてお互いが不可欠でありかつ各々が相互に自身の鏡であるような親近感を端的に表現していると言える。カトリック教に規定された伝統的にな家族(ファミリア)や家族愛といった規範とは別個の平面での兄弟関係ありかたを母親の視点から可視化する試みである。

Ingrid Cuestas イングリッド・クエスタス
La carne no viene en bandeja お皿に盛られた肉の彼方に
ビデオ、1分54秒
2016

ハベリアナ大学 (Universidad Javeriana)で美術を専攻。コロンビアのほかブラジルなどでグループ展やアーティスト・イン・レジデンスプログラムに参加。

作家はこれまでアクティヴィスト、料理人として、モンサント社の農薬による土壌汚染や過剰採掘による地盤沈下など、ラテンアメリカ大陸における多国籍企業の経済搾取やそれに付随する自然環境へのダメージなどを告発してきた。本作品では「食べること」―我々の本能的欲求に基づく消費行動―や、ラテンアメリカ固有の家庭(hogar) における分かち合い(compartir)や親密さが表現される場としての食卓、もしくはそうした場で調理された肉が盛られるお皿(bandeja)の彼方で、多くの命が犠牲になっていると言う事実を強力かつ端的な映像言語で告発するものである。

John Benavides ジョン・べナビデス
Carta a un amigo japonés 日本の友人への手紙
ビデオ、2分36秒
2021

カウカ大学学院にて人類学博士号取得。ナリニョ大学大学院教授。同大学にて革新的な大学院プログラム「アートとコンテクスト」の設立を主導

アーティスト、リサーチャーとして文化人類学とアートの境界領域で仕事をしてきた作者は近年コロンビア、とくに自らが拠点としエクアドルと国境を接する最南部ナリニョ地方の政治や社会状況について作品を発表している。本作品は哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)の公開書簡『日本の友人への手紙』(1983)にインスピレーションを得、エクリチュールと暴力について語るインタビュー音声を引用しながら、コロンビアと日本両国における文字通りの暴力の歴史や、西欧・北米中心のアカデミアにおけるヒエラルキーの中でコロンビアと日本両国における批判的思考の系譜がいかに周縁に追いやられてきたかを訴えることを目指している。

Proyecto Nómadas プロジェクト・ノマダス
写真110枚
多様なサイズ
参加作家: Alex Urrego, Daniel Castañeda, David Tovar, Diego Cano, Eddy Martín, Fernando Murcia, Guillermo Camargo, Ismael Barrios, Javier Vela Sepúlveda, Jenny Martínez, Takaaki KJ, Yeins Gil
特別招待作家: Ovidio González

ボゴタは語られることの少ない街だ。人口800万を誇るコロンビアの首都かつ最大の都市でありながら街の大部分はただそこに住み淡々と日常をこなすためだけに存在し 、ツーリスト的付加価値のある『場所』として対象化されることがあまりない。

市民の大半がボゴタについて口にするのは大気汚染や、非効率な公共交通機関のシステム、赤道から至近距離であるのにもかかわらず寒く曇りがちな気候、大都市特有のインパーソナルな接客、泥棒の多さなど愚痴であることが多く、一方で市当局が推進する「ヒューマンなボゴタ」というスローガンは抽象的に過ぎてボゴタがいったいどんな街なのか具体的な像を結ばない。在住外国人や旅行者にしても、気候も良く何かと話題に事欠かない第二の都市メデジンについては多くを語るが、ボゴタについては「首都だし職探しに便利だから」などプラクティカルな話ばかりになる。

あまり褒められることのないボゴタだがそこにはとにかく800万人以上の人々が暮らし、セントロ(ダウンタウン)、チャピネロ、ソナGなどきわめて限定された商業文教地区の外側には無名の住宅地や倉庫街、高層団地などが広がっており、そこは外国人ばかりでなくローカルな住民の大部分にとってほとんど知られざる場所となっている。

2021年2月、アートディストリクトNodo51の一部として写真家Takaaki KJによって立ち上げられたこのプロジェクトは、このように明確なアイデンティーが欠落しがちなボゴタという都市と写真を通じて対峙する試みである。プロジェクトはアーティストや多様な職業を持つメンバーによって構成され、毎週日曜日ボゴタ市内の中心部から南部を中心に様々なルートをカメラやスマートフォンで撮影しながら歩く。この実践を通じ、同一の「場所」に注がれる複数の視線における差異を検証することで、それぞれのネイバーフット固有のアイデンティティー再構成に寄与することを目指す。2021年2月14日にTeusaquillo地区で第一回目が行われ、現在までほぼ毎週日曜日に開催されている。本写真作品は2月から現在まで、約半年間の共同作業の成果を要約するものである。

興味深いことに、世界中の大都市でロックダウンが行われ日常生活のバーチャル化が進行するなか、ボゴタでは4月上旬に一時的な外出制限や部分的な自宅待機令が出たほかは、バーチャルからリアルな対面性へと状況はむしろ逆方向に推移してきたように思える。このことは4月28日に勃発した全国ストライキににともない街頭デモや混乱がボゴタ各地やコロンビア各都市に広がったことの帰結として、感染防止を理由に自宅待機を求める様々な言説や規制がまったく意味を持たなくなったことと関連している。その正否は置いておくとしても、この過程は国家権力に異議申し立てをするプロセスにおいて、身体を持つ一人もしくは複数の人間が街に立ち声をあげることの重要不可欠性を証明することになった。パンデミックから一時的なロックダウンへ、そして破壊活動や警察部隊による弾圧をともなう政治的混乱の時期へ、2021年2月から8月を通じ、このフォトプロジェクトはメンバーや規模を多少変動させながらも継続し現在に至っている。

ステートメント 2021-8-11

敢えてキュレーターとしての立ち位置から自身の作品を眺めたとき、そこには作家と「場所」との間に友好的な関係性を打ち立てることが模索されているように感じます。20代以降、東南アジア、米国、メキシコ、コロンビアなど幸運にも多くの国に住む機会に恵まれたわけですが、そのことの一番大きな収穫は自分の人生にとっての「原点」といえるような瞬間がたくさん生まれたことではないかと考えています。パンデミックの影響のなか、もしくはそうした社会的事象とは無関係に人の生には迷いや行き詰まりがつきものなわけですが、そうした場面で立ち返る地点がたくさんあることーつまりそれぞれの国で生活を始めた初期、日々の記憶が書き込まれていく以前の、場所が未だ「まっさら」だった時期の気持ちに立ち返り何かをやり直すことができること―はこれまでとても有益なであったような気がしています。これまでの人生を通じて、自分はこのようないくつもの場所と原初的な体験で結びつくことを模索してきたのではないか、という思いがあります。

個人的な話になりますが、物心ついたころから学校や家庭と言ったノーマルな場所にはなかなか同一化することができない感覚的な不一致があり、本当に「安心できる」場所は電車やバスの中、路地と言った半ば匿名の、人類学者マルク・オジェが「非場所」と形容したような場所だったような気がしており、そのようなさまざまな場所と折り合いをつける必要性と向き合うことは日本を離れ15年経った今も変化がないような気がしています。そのように、自分にとっていろいろな場所を訪れそこに住もうとすることは、特定の場所と特別の関係を結ぼうとすること、通俗的な言い方をすれば自分の「居場所」を確保したいという欲求が奥底にあったのではないかと考えています。そこで場所は必ずしも日常的に明白な理由があって訪れ、通る場所とは限らず、自分がそこに存在するということの重みを測るための探知機のようなものであったのかもしれません。

そうした経緯から、北米の無機質なハイウェイや、中南米諸国の人でごった返す市場やバスターミナルなどで場所を凝視しカメラに収めることで、日々の目的性や実用性を引きはがされたいわば「生」の場所のありようを自分なりに模索してきたような気がします。人々がある一定の目的を果たすために外に出て街を歩くこととは別の、「場所」へのかかわり方の可能性が示唆されているように思われる一枚の写真。それはある場所に自分が存在しているという事実を、目的性ではなく、カメラで「写真を撮ること」によって正当化するプロセスと言っても良いかもしれません。買い物、通院、どこかでお茶を飲むこと、アートギャラリーに作品を見に行くこと、目的は何であれ自宅や普段いる場所を出て別の場所へ移動することで、何かが起きる、つまり社会的に受容されている「出かけることの目的」を果たすことのみに還元できない「場所」を経験することによる主体の有意味な変容があるのではないか。

ところで場所を経験するということは同時に、複数の場所同士の関係性やそれらが連続継起するさまに注意を払うことでもあります。当然ですが場所はそれ単体で存在するものというよりは、複数の場所を通り抜けていくことー移動や旅―によってはじめて現前するものであり、ある場所に至る仕方、つまり「経路」ということが重要な意味を持ってきます。私は写真家として、巡礼や観光というテーマにずっと興味を抱いています。四国88カ所霊場巡りでも、パリやニューヨークと言った都市で観光客がさまざまなサイトを歩いてまわることでもよいのですが、これら有名史跡や名所を巡ることで得られる「場所」の経験は何も個々の名所そのものに由来する知識や感慨には限定されず、より広範なものであるような気がしているのです。地下鉄やタクシー、徒歩でこれらのサイトを繋ぐルートを移動することで観光客や巡礼者はこれらの「場所」をむすぶルート―無数の場所の集合ーを経験するはずであり、そうした経験全体がひとつの「旅」の印象を形作っているわけです。

最後に私が提案したいのは、このような長く記憶に残るような「豊かな」場所経験の仕方は、何も海外旅行をしたり新しい場所を好奇心いっぱいで訪れる観光客や巡礼者の特権などではなく、自分が住んでいる国や街、もしくは自宅の近所などでも実現することが可能なのではないかということです。つまり、経路という主題を注意深く精査することで、場所の経験の仕方が変わってくるのかもしれない、ということです。そしてそうした「場所」の経験にフォーカスしたプロジェクトとして、これまでボゴタ市内を中心に一見無意味なサイトを目的地とする観光ツアーともいうべき、Nodo51フォトウォーク(#salidafotonodo51) を2021年2月より主催しています。

Inauguración: IMAGÉN SUSPENDIDA en Carta Abierta Galería

IMÁGEN SUSPENDIDA
Los artistas que hacemos parte de la muestra IMÁGEN SUSPENDIDA, pertenecemos a una generación que ha vivenciado transformaciones claves en el campo fotográfico desde finales del siglo XX, inicialmente por el advenimiento de la tecnología digital finalizando los años 1990, y posteriormente a mediados de 2010, a partir del lanzamiento en el mercado de smartphones con cámaras de alta tecnología, lo cual de manera innegable democratizó las experiencias en producciones fotográficas. Especialmente, este segundo momento nos ha sido un motivo importante de reflexión sobre la actualidad y la futura trayectoria de las expresiones fotográficas.

Mucho más allá de las palabras de la crítica estadounidense Susan Sontag (1933-2004) hace más de 35 años, acerca de cómo la fotografía alteró las percepciones y la memoria humana sobre la realidad, hoy en día la fotografía misma como medio de expresión parece desligarse cada vez más de su núcleo identitario que parecía válido hasta hace pocos años.

Ésto se debe a que, a lo largo de la década de 2010 la fotografía se ha convertido en un conjunto de imágenes, contenidas en un circuito cerrado de producción y consumo masivo, consistente en la conectividad del dispositivo móvil con las redes sociales. Se trata de un plano mediático en el que el cuerpo del fotógrafo – el cuerpo enfrentándose con el objeto y consciente del espacio permeado por diferentes grados de luz – es poco visible.

Sin lugar a dudas, estamos convencidos de que presenciar estos momentos de transiciones fundamentales es un inmenso privilegio, del que jamás pudieron gozar los fotógrafos de generaciones pasadas. Lo anterior es porque una época como la nuestra, repleta de la facilidad tecnológica, de transferir, reproducir y alterar imágenes, paradójicamente nos permite adoptar una postura radical en relación con nuestros planteamientos, a tal grado de poder declarar que, lo más valioso no consiste en las propias imágenes, sino en el cuerpo del fotógrafo, o cuerpo que procura regir todo el proceso de producción, desde el desplazamiento al campo de trabajo, diálogos que se realizan con personas o comunidad de personas fotografiadas, así como el momento de capturar su objeto desde un espacio de iluminación, el momento quizás alusivo a una meditación, cuyo enfoque preciso del tiempo-espacio es comparable a una búsqueda de conexión con¨el aquí y el ahora¨

IMÁGEN SUSPENDIDA reúne propuestas de 7 fotógrafos contemporáneos residentes en Colombia, quienes desde sus campos de investigación plantean intervenciones en los estados actuales de la fotografía, en los cuales las indagaciones más radicales inevitablemente giran alrededor de la localización del cuerpo detrás de las imágenes producidas.

Takaaki KJ,
Fotógrafo

Revisión de estilo
Diego Cano

¨Zona turística: Recorrido múltiple¨ en Bliss on Bliss Art Projects and Topaz Arts

April 11-22, 2021
Bliss on Bliss Art Projects
Topaz Arts

Andrea Ortiz, Ann Kroon, Iván Herrera, Takaaki KJ
Curated by: Takaaki KJ
Co-curated by: Ged Merino
Graphic design: Andrea Ortiz

Zona Turistica-Recorrido Multiple:

Bogota is a city of which few people talk about. Despite its economic and political importance as the capital city of Colombia, with the population of over seven million people, except for a few central districts frequented by tourists, such as La Candelaria, Chapinero and Zona T, the rest of the city remains largely anonymous with very few geographic landmarks.  

Bogotá’s residents often complain about rather than appraise the city, most commonly in regards to its cold and cloudy weather, relatively high crime rate, and above all unreliable and chaotic transit system. Now that the proposal for the construction of a new Metro System set forth almost 40 years ago appears to be a daydream, the solution for many is simply to stay in their own neighborhood when it comes to satisfying their daily needs.

Due to this inconvenient situation, based on my living experience, for many bogotanos, the large part of the city’s areas are the realms of the other, since one hardly finds it reasonable taking his/her time to visit places, many of them are so-called barrios populares (popular
neighborhoods) where there mostly are monotonous, often standardized landscapes filled with brick houses, mechanical shops, factories, grocery stores etc., which are virtually indistinguishable.

The current exhibition Zona Turística-Recorrido Múltiple shows the selected works of four photographers based in Bogotá, who have sought to highlight the city’s yet unnamed legacies by exploring the aforementioned anonymous streets or neighborhoods in the city. As if religious pilgrims who untiringly walk a long distance to fulfill their ¨holy¨ objectives, these artists’ practices are based on the conviction that photography is a tool not only to document a place’s topography, but also transform and reinvent it.

Their works all attest the individual photographer’s bodily insertion into Bogotá’s urban environment, which have created numerous unexpected entry points to walk into, as well as new routes to move around within the city’s cartography, critically blurring the conventional division between everyday life, travel and ethnographic fieldwork.

Zona Turística show us an insightful new approach to photography taken as a tool to transform our experience of the place and deepen our understanding of anonymous collective legacies in our immediate everyday environment.

Takaaki KJ
Curator

HETERODOXIAS: EXPOSICIÓN INDIVIDUAL DE IVAN NAVARRO

¿Por qué Dios permite la pedofilia, el racismo, la xenofobia, la pobreza, el desplazamiento, el hambre, la enfermedad, la esclavitud, la homofobia, la misoginia, el secuestro, la tortura, el asesinato, la corrupción? ¿no está en su naturaleza la compasión? ¿acaso sólo nos queda perdonar? Algunos de estos cuestionamientos persisten en la mente de un creyente o de alguno que dejo de serlo por falta de respuestas.

Iván Navarro

Heterodoxias

La obra gráfica de Iván Navarro a partir del dibujo aborda críticamente diferentes aspectos de la vida política, social e institucional en Colombia que ha generado polémica. La presente exposición está compuesta por una serie de piezas de dibujo y texto que, a través de una serie de citas bíblicas y representación de algunos personajes controversiales, cuestiona ciertas bases de la ideología de la iglesia católica; según el artista dicha ideología históricamente ha restringido el pensamiento común a la par de perpetuar diversas actitudes negativas conservadoras tales como el machismo y el racismo.

De manera inmediata la muestra abre un espacio discursivo que nos conduce a una reflexión sobre la diversidad de miradas hacia la religiosidad en Colombia. Es posible que la muestra se pueda entender a la luz del reconocido estudio sobre la religión como un sistema cultural, realizado por el antropólogo estadounidense Clifford Geertz (1926-2006). A partir de su emblemática teoría de la antropología interpretativa, Geertz definió el sistema cultural como una red de elementos simbólicos que dan sentido a la realidad colectiva, observada desde el punto de vista de quienes habitan en un determinado territorio cultural.

Geertz señala que, una religión se debe estudiar no solo como un mapa ilustrativo que nos facilita comprender el origen y el estado actual de la realidad mundana, sino también como un factor que, al igual que el poder político, las obligaciones de orden legal etc., es participe en el desarrollo de esa misma realidad que trata de describir, al intervenir el pensamiento y comportamiento de sus creyentes. En este sentido, el proyecto del artista puede verse como una penetrante critica cultural hacia las circunstancias contemporáneas en Colombia, una sociedad en la que, según la opinión de varios, la religión ha perdido su capacidad de responder a preocupaciones sociales más inminentes tales como la desigualad económica y de género, las represiones políticas y la generalizada corrupción en el gobierno.

Quizás, el aspecto más significativo que se puede observar en las prácticas artísticas de Navarro sea el hecho de que, al llevar al extremo su crítica hacia la ideología religiosa, por dejar todo dicho y descubierto, su obra simultáneamente nos deja entrever una contradicción ideológica con la institución del arte a la cual pertenece al presentar un proyecto, en un espacio en el que pueden existir circunstancias similares de exclusión.

El reconocimiento de Navarro sobre tal contradicción se puede percibir a partir de los medios que emplea en su obra, que se basa en la utilización de materiales efímeros; la colección de hojas translucidas de papel mantequilla, recogidas y unidas por fragmentos de cintas; generando una especie de antítesis hacia la celebración de lo permanente y tangible, la práctica predominante que ha permeado el mercado del arte y las instituciones artísticas desde siglos anteriores.

Simultáneamente la colección de las hojas de papel mantequilla metafóricamente se pueden interpretar como una referencia a lo colectivo, como si la obra hablara representando diversas voces desde la comunidad de aquellos que no están de acuerdo con una ideología institucional, cuestionando de esa manera una práctica similar a la religiosa que se da en el campo del arte como es la consagración en este caso de un artista, reconocido como sobresaliente y un respetado referente por encima de los demás, que es una práctica comúnmente predominante en el mundo del arte.

En otras palabras, la propuesta del artista no necesariamente se debe entender como un atentado desde el arte contra una ideología religiosa, sino más bien como esfuerzo personal del artista por explorar e interpretar el estado actual de su territorio cultural de manera más nítida posible, en el cual ha sido inevitable realizar detalladas indagaciones sobre marcos intelectuales considerados vigentes dentro del pensamiento general de la sociedad, tales como la religión, el arte y la política, los cuales a través de sus aparatos institucionales han guiado y regulado nuestro comportamiento cotidiano.

Por último, la crítica de Navarro nos hace recordar el discurso del artista japonés Okamoto Taro (1911-1996) hace más de 50 años, quien hizo un paralelo entre el arte y un acto de magia; según Okamoto, a diferencia del mundo de arte y su discurso enfocado en obras tangibles tales como la pintura y escultura, en el acto de magia priman los fenómenos y efectos que se producen a partir de la acción del mago, dejando muy poco espacio para destacar la importancia de la materialidad de sus parafernalias.

La exposición Heterodoxias nos conduce a un espacio de dialogo y reflexión en el cual desde lo inmaterial, más que una estructura rigurosa, se aborda una discusión que pocas veces se ha realizado de manera constructiva.

Takaaki KJ
Curador

Corrección de estilo:
Diego Cruz

Procesos y paisajes: Exposición individual de Juan Pablo Romero

Inauguración: 11 de febrero 3:00PM
Cra. 26 #50-94
CASADUCUARA 
https://casaducuara.com/

Montaje y museografía: Estey Ducuara
Curaduría: Takaaki KJ
Corrección de estilo: Diego Cruz

PROCESOS Y PAISAJES

En 1955, el artista japonés Shiraga Kazuo (1924-2008), miembro del reconocido colectivo Gutai realizó una acción emblemática nombrada desafiar el lodo, en la cual negoció con una empresa constructora para crear un escenario con un gran charco de lodo húmedo, de material de construcción, frente a Ohara Kaikan en Tokio, donde se llevó a cabo la primera exposición conjunta del colectivo Gutai. Mientras la lluvia se ponía cada vez más fuerte el artista se desnuda y lanza en el lodo, y literalmente lo desafía tratando de dominarlo con un enorme esfuerzo físico y mental, desplazándose con gran dificultad en dicho espacio.

Como otras acciones realizadas por los demás miembros del colectivo, el performance de Shiraga abrió una nueva dimensión en el arte de la posguerra al comprobarnos que el artista como sujeto creador y el material que él interviene, no necesariamente implica una relación armónica, sino también una tensión permanente que rige un proceso de lucha por la dominación difícilmente lograda. Realizado en una época tras una serie de represiones políticas en Japón, a principios de las décadas de la Guerra Fría, la acción de Shiraga causa una sensación nostálgica hacia la época en que el ¨enemigo¨ de nuestras luchas por la libertad aún se percibía de manera tangible.

De alguna manera se puede hacer un paralelo a lo planteado en la acción de Shiraga y el artista colombiano Juan Pablo Romero, quien trabaja en materiales de construcción; sus obras escultóricas apuntan a un cuestionamiento continuo sobre la naturaleza de estos materiales, los cuales son componentes claves de la estructura de la infraestructura urbana, tales como edificios, carreteras y puentes entre otros, y que según el artista son elementos que producen un sistema rígido que marca el límite entre el recinto natural y el entorno habitado por el ser humano.

Como Shiraga, Romero está consciente de la dualidad en la subjetividad artística en relación con los materiales, pues mientras el artista es el sujeto que otorga la forma al material a la hora de plasmar su obra, dentro del contexto social más amplio, los materiales que trata Romero -cemento, yeso y ladrillo entre otros – son elementos que crean tales estructuras, las cuales a su vez se imponen, y psicológica y físicamente nos limitan y encierran. Dicha consciencia de dualidad se podría comprobar por las superficies crudas y formas espontaneas de dichos materiales en su trabajo, las cuales en su mayoría rechazan toda la referencia metafórica a algún objeto mundano.

Al contemplar las obras de Romero dentro de un espectro geográfico e histórico amplio, en este caso en relación con la acción de Shiraga nos permite reflexionar sobre la posición de un artista frente a su producción artística, y también sobre nuestra cambiante percepción sobre el entorno habitable en general, donde las tecnologías y estrategias de control sobre el ser humano son cada vez más sofisticadas y ocultas. 

En otras palabras, es importante señalar el hecho de que, como algunos sociólogos han aclarado, a diferencia de los tiempos que vivió Shiraga, hoy en día el poder de control difícilmente es perceptible mediante una presencia tangible como el caso de las paredes que marcaban las hostilidades ideológicas – el Muro de Berlín por ejemplo, o represiones militares con tanques de guerra y cohesiones políticas por agentes autoritarios, circunstancias en las que los protestantes aún podían identificar su objetivo de lucha y ¨desafiarlo¨ mediante su propio cuerpo.

Frente al mundo actual que va emergiendo desde un nuevo tipo de realidad en la que las experiencias de encerramiento hacen parte de nuestra vida diaria, aún estamos lejos de identificar estrategias eficaces para vivir dichas medidas de control. En este sentido, es interesante enfocarnos en una de las series más importantes de Romero, es decir, las construcciones de ladrillo que evocan el arquetipo de un ataúd, como espacio reducido con escaso acceso visual hacia el exterior. Estos espacios de encerramiento relacionados al momento de la muerte, a la vez implican, en contraste con el caso de Shiraga, la imposibilidad de acción de lucha debido a la ausencia o impermanencia de nuestro cuerpo mismo, mientras las estructuras de control siguen imponiéndose de manera inquebrantable.

Al contrario de la acción de Shiraga que demuestra su plena confianza en la capacidad humana de resistencia desde lo corporal, las obras de Romero parecen señalar que, si existe alguna acción viable frente a nuevas estructuras de control, dicha lucha quizás deba partir de nuestra capacidad de imaginación o meditación sobre la muerte, es decir, sobre el momento en el cual nosotros mismos definitivamente nos liberamos de nuestra estructura corporal, que difícilmente está libre de una cohesión permanente.

Takaaki KJ,
Curador
(Corrección de estilo: Diego Cruz)

¨Artificios híbridos¨Jorge Magyaroff

¨Artificios híbridos¨ Muestra no.11, ciclo de microexposiciones. CASADUCUARA (Bogotá, Colombia), 20 de noviembre – 4 de diciembre, 2020. Artista: Jorge Magyaroff

ARTIFICIOS HÍBRIDOS
Jorge Magyaroff

En 1965, el artista japonés Shinohara Ushio (1932) copió una obra de Robert Rauschenberg (1925-2008), uno de los dirigentes del movimiento Neodadaísta en Nueva York, titulada como Coca Cola Plan (1958). Dentro del ámbito artístico en el país Nipón de la década del sesenta, época en la que se percibía una fuerte influencia norteamericana; Shinohara, más allá de buscar inspiración en la pieza de Rauschenberg, se atrevió a recrear Coca Cola Plan, de manera más fiel posible a la imagen original de la obra de Rauschenberg. Al crear su obra, Shinohara seguramente estuvo consciente de la particularidad de dicho contexto de producción en el Japón de la posguerra, una nación que acababa de concluir un largo proceso de reconstrucción desde las consecuencias catastróficas de los bombardeos masivos durante la Guerra del Pacifico (1937-1945).

El decenio de los años 1960, tras haber transcurrido dos décadas del fin de la Segunda Guerra Mundial, se caracterizó por ser un periodo en el que las industrias japonesas acababan de superar una grave escasez de materias primas propias de la era de reconstrucción. Es posible que la obra de Shinohara también se pueda entender como la perspectiva de un artista que ya era capaz de producir obras de arte de ¨alta¨ calidad comparable con las de un artista norteamericano, como si se tratara de un paralelo en la producción industrial de autos o de electrodomésticos entre las dos naciones, en un momento histórico en el que su país de origen emergía como una potencia económica en Asia, y dejaba atrás los años en los que la escasez material, afectaba fuertemente la producción tanto en las industrias como en los oficios artísticos.

La creación del artista colombiano Jorge Magyaroff, tiene elementos comunes y parece partir de la misma consciencia acerca del contexto geopolítico, social e histórico que en alguna medida pueden tanto potenciar como restringir las producciones artísticas. Magyaroff posee un gran interés en las prácticas de reciclaje y bricolaje, como una costumbre bastante arraigada en la sociedad Colombiana que de hecho se remonta a siglos atrás. En éste país en gran parte por la creatividad y en parte por una necesidad económica, en muchos hogares se realiza una práctica que hace parte de la idiosincrasia popular de no descartar objetos usados, con el propósito de mantenerlos para algún posible uso más adelante, muy distinto al cual fue creado.

Recorriendo los barrios populares, afuera de los hogares o en lugares de uso comercial, fácilmente encontramos un paisaje en el que se observan escenas de reciclaje y bricolaje, como el caso de neumáticos o llantas de vehículos usadas que cumplen varias funciones, desde servir de letreros de talleres mecánicos, hasta ser usados como elementos claves de la jardinería doméstica, como señala Magyaroff, en las periferias de Bogotá …se encuentran casas fabricadas a partir de materiales reciclados: latas que funcionan como paredes, troncos de madera que funcionan como vigas o láminas de cartón que hacen las veces de puerta.

Teniendo presente estas prácticas populares, y en vez de visualizar escenas sociales concretas, la producción de Magyaroff consiste en introducir el mismo principio de reciclaje y bricolaje en sus oficios artísticos. En sus obras cuidadosamente se plantea un estado continuo y transitorio de los materiales, allí los fragmentos de marcos, pinturas, lienzos, soportes empiezan a comportarse de manera discordante con la realidad convencional, hasta el punto de producir lo que el artista nombra como artificio híbrido, es decir, un objeto hecho a partir de los residuos de su producción, cuya funcionalidad original se trastoca y se constituye en un artefacto capaz de generar diversas sensaciones e inquietudes acerca de la concepción normativa de lo que es una pieza de arte, desde la plasticidad de sus composiciones

Las obras de Magyaroff aquí reunidas quizás se puedan ubicar dentro de un amplio espectro que yace entre los dos usos más comunes de la palabra ¨pintura¨ en castellano, siendo la primera un cuadro como obra de arte, finalizado con acabados impecables y la segunda la pintura como material liquido que fluye, y termina definiendo la apariencia de casi todos los aspectos de la infraestructura del mundo habitable, de la que una obra de arte participa ocupando únicamente sus pequeñas dimensiones.

Takaaki KJ
Curador