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コロンビアの「詩情」:コンテンポラリーアートにおける日本へのまなざし

本稿ではキュレーターとしてラテンアメリカや日本の美術にかかわってきた経験から、南米コロンビアのコンテンポラリーアートにおける「詩情」というテーマについて考えてみたい。ほんの偶然からコロンビアに住みはじめ5年が経とうとしている。コロンビアといえば麻薬カルテルの抗争、頻発する犯罪、天と地ほど開いた貧富の差など日本ではいまだに否定的なステレオタイプが拭えていない。コロンビアは親日的な国である。人々の大半が日本に対してポジティブなイメージを持っていると言ってよく(日本人を前にした外交辞令だという側面を差し引いても)、日本の文化的規律や労働倫理をk鑑として経済発展を目指すべきだと主張する人に多く出会う。日本がバブル崩壊後の長期化する経済停滞に直面し、少子化や自然災害など出口の見えない数多の問題を抱えるなか、ここコロンビアでは90年代の「旧き良き」日本のイメージがみずみずしく保たれているのである。

それにしてもコロンビア市民が親日的であるという事実は、この国における一般的な生活感覚に根源があるように思えてならない。あくまで印象論だが、人口の大半が冷涼で曇りがちなアンデスの山岳地帯に集中するコロンビアの日常風景は、「ただひたすら陽気なラテン系」カルチャーというステレオタイプから大きく逸脱する。とくに標高2600メートルに位置する首都のボゴタは年間を通して天候の変動が激しく、太陽が顔をのぞかせてもすぐに灰色の雲に隠れてしまう。若い世代の相当数がカトリック教会に半ば幻滅した社会で育ち、レイキ、アーユルヴェーダといった「東洋」的な思想や実践への興味が一般化している現在、日本への視線も(ロボット工学など最先端技術へ興味に加え)、西欧の一神教的なロジックや美学では拾いきれない不可思議な現象への関心と軌をひとつにしているかのような印象がある。

コロンビアにおけるこうした日本へのまなざしはアート作品にもしばしば表現されるようだ。本年4月(4月11日から27日まで)、筆者がキュレーターとして関わっているARCOT(Colombian Aritsts in Tokyo)はセルバンテス文化センター東京にて第三回目のコロンビアコンテンポラリーアート展を実施した。コロンビア国内向けの公募によって選出された40作余りの作品が会場を占め、オープニングには多くのアート関係者が来場した。航空輸送の制約上展示されたのは50センチメートル平方以下の平面作品が中心だが、絵画と版画、コラージュなど複数の技法を組み合わせた型破りな作品が多く、来場者からは「ラテンアメリカのイメージを裏切られとても新鮮だった」「制作の刺激になった」など多くの好意的なコメントをいただいた。

しかし実験的な作品が多いことと同等に興味深いのは、今回の展示にはコロンビア市民の日本への興味、もっと言えば「詩情」ともいうべき感覚を反映するかのような作品が何点か含まれていたことである。ここで「詩情」や「日本らしさ」の定義について詳細な検討を加える紙幅はない。賛否両論があるのを承知で私の視点を要約すれば、今回のARCOT展では、日常のなかで目にする言語化されにくい、西欧の美学理論では見落とされてしまう未分化な現象や風景などを意欲的に扱った作品が多く、興味深いことに日本文化というとしばしば連想される紙という素材を巧みに操作した作品も散見された。彼らが果たして日本での展示を意識してそうした作品に取り組んだのか、それともそれ以前に「日本的」なものに興味がありそのような表現に帰結したのか、単に個人的な背景で制作した結果を偶然ARCOTに出展することになったのか、さまざまな推測が可能である。

たとえばイバン・カルドナ(Ivan Cardona)の「圧縮された時間、圧縮された声」(Tiempo comprimido, voz comprimida)。この作品はコロンビア最大の日刊紙エル・ティエンポ(西語で「時間」という意味)と左派系の週刊紙ボス(「声」)の第一面を、長さ4cm幅3mm程度の微細な断片に切り刻み、それらを重ねながら再構築したものである。断片が重複しているため作品全体のサイズはもともとの紙面からはかなり「圧縮」されている。もしこの作品に「日本らしさ」があるとすれば、それは日々印刷されては廃棄される新聞紙という身近な素材への着目や、紙というマテリアルに着目しながらあたたかも日本庭園の「見立て」のごとく縮小する、そうした作家の手つきを指摘することができるのではないだろうか。

それにしても「時間」と「声」を圧縮するというメタファーはコロンビア出身である作者が東京という文化的他者の土地で展示をするときに不可避的に直面するプロセスなのではないかと考えると興味深い。グローバル化が極点に向かう2010年代後期の日常では通信技術の発達により「時間」が大きく圧縮されているのは言うまでもない。またインターネットにおいて「圧縮」という用語は負荷の大きい情報をzip形式等に変換するときによく使われるが、それはもとのファイルにある情報をより伝達しやすい別の(言語)形式でエンコードすることを意味する。作者による「圧縮」プロセス(切断と再構築)を経たこの作品でも、従来の新聞に書かれていたスペイン語の情報がロゴの部分をのぞきほぼ完全に解読不能となっており、本来のテクストは不可視の情報として埋没させられている。言うまでもなく情報の取捨選択は異文化間コミュニケーションにとって必須のプロセスである。多くの場合内容は「かいつまんだ」上で伝えられるほかはない。この作品は、ほとんどがスペイン語知識のない日本の読者にとって、どのように「時間」や「声」が圧縮されているのかについて、自由に想像を巡らせる快い余白を残したと言えるだろう。

日常のさりげない場面への着目という点で、同じくARCOT展にて展示されたルイサ・ベルトラン (Luisa Beltrán)の「日曜日」(Domingo, 油彩、紙)という絵画は注目に値する。この作品に描かれているのは食後の、各自が食事を終えたあとの皿やフォークが重ねられているだけのさりげない場面である。興味深いことにこの絵画は同じ「日曜日」といタイトルの「現在午後5時1分、太陽が照り二滴の雨が降った日曜日」というフレーズで始まる詩と一緒に展示された。詩作品は「一味違う」日であることを誰もが望むはずなのに、いつもモノトーンのリズムでやってきては過ぎてしまう、積み重なりやがて何時だったか見分けがつかなくなってしまう「日曜日」のことを小気味よい哀愁をこめて描いたものである。

日曜日という普遍的なテーマを扱いながら、絵画のほうはコロンビアという土地の日常をみずみずしく伝えている。詩作品が示唆する通りのんびりとした日曜日の、遅めの昼食なのだろう。大きさが不揃いで模様もバラバラな皿、そしてトトゥマと呼ばれる、瓢箪のような実の殻を使った容器。これらはまっさきにコロンビアの中流もしくは庶民の食卓を想起させる。そして皿に付着しているトマトソース、様々な方向に差し込まれたスプーンやフォーク。皿洗い機が完備されたアメリカ合衆国の中産階級の家庭などではこうした場面に目をとめることは稀であろうし、多様な形の小皿を常用する日本の家庭ではこれとはまったく違った場面になるだろう。

さりげない日常を際立たせるという目的にとって、絵画の背景が余白であることや、支持体である縦50センチ、横35センチ余りの紙の質感は重要である。こうした瞬間に着目し、ただ過ぎてしまう「日曜日」を不動化するこの作品には、2017年の流行語大賞となった「インスタ映え」、つまり携帯カメラの「ナイスフード」モードでテーブルに運ばれた食事や食卓の風景を写真に撮りいち早くSNSで共有してしまうこととは対極の視線がある。写真はいちどSNSに載ってしまえば5億人を超えるとされるインスタグラムユーザーの投稿のなかに埋没しながら、条件反射的な投票行動の対象となり、数日のうちに忘れられる。紙という身近な支持体を使い、いわば非SNSとも言えるワンシーンを切り取る試みは、詩作品にこめられた「日曜日がもっと味わい深い瞬間であって欲しい」という作者の願いと通じ合う。

本稿で論じた2作品に限らずコロンビア出身のアーティストの作品には日常のなかに「詩情」を見出すアプローチを比較的よく目にすることができる。前述したようなコロンビア社会固有の文脈をさらに掘り下げつつ、「詩情」とコンテンポラリーアートというテーマについてこんごさらなる考察を重ねてゆきたい。

「詩と思想」2018年11月号、164-167 ページ

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