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Comunicado mayo-6-2023

Mayo-6 2023
Asunto: Convocatoria interna
Nodo 51 – Área cultural

La presente convocatoria se concretará en la construcción de un archivo fotográfico, o una muestra (espacio expositivo por definir) que refleje todo el proceso pertinente a la realización fotográfica durante las #salidafoto del del Nodo51. Los aspirantes deben hacer parte de los 3 talleres de lectura y escritura fotográfica para poder hacer parte de la construcciónón del archivo/exposición

Introducción
Salida para la experimentación fotográfica del Nodo 51 -Área Cultural es un proyecto comunitario/curatorial que articula el ejercicio fotográfico con las prácticas de la lectura y participación territorial, a la vez generando diálogos entre los miembros de la comunidad local, fotógrafos y artistas plásticos a partir de la realización de recorridos fotográficos en diferentes localidades y barrios de la Ciudad de Bogotá. Colaboración con: Bacatá Fotografía Análoga, Colectivo Tagua y Movimiento de Fotógrafos. Proyecto dirigido por Fundación takaakikj.com – proyectos curatoriales

Costos de participación 
Personas que han estado al menos 5 salidas fotográficas entre 2021 y 2023: 00.000 COP
Personas que han participado de 1-4 salidas fotográficas: 50.000 COP
Personas que aún no ha participado de ningún recorrido fotográfico
1.00.000 COP

Obligaciones del participante
-Componer una serie fotográfica (3-10 imágenes) acompañada por un texto de al menos tres párrafos (más de 250 palabras). El texto podría incluir reflexiones sobre el desplazamiento, territorios recorridos, personas encontradas o otros elementos sensoriales y teóricos en relación con el recorrido fotográfico. Por favor enviar una versión tentativa del texto al correo: curatorial@takaakikj.com antes de Jueves 11 de mayo.

-Asistir a tres talleres teóricos que se realizarán durante los meses de mayo a julio. Los detalles de la programación se anunciarán después de la recepción de dichos textos, y concretación del equipo de traba

-Se aceptarán imágenes hechas durante los recorridos fotográficos. Sin embargo, en el caso de no contar con suficiente número de ellas, se pueden enviar imágenes referentes a la experiencia del recorrido (colectivo o personal), en otras palabras, imágenes que se relacionen con alguno de los siguientes temas: territorio, recorrido, etnografía, comunidad local, activismo social etc.  Si tienen duda, pueden envía tentativamente solo las imágenes al 318 602 5966. Lo esencial de este laboratorio serán diálogos y acompañamientos personalizados.

 

Layover: Salas de espera en el aire (Bogotá-Colombia)

「マリアがいた風景」

2022.7.29 

「Layover」展共同キュレーター 城野敬志

日本とコロンビアを巡る移民の歴史は古く、1908年の日本コロンビア修好通商航海条約の調印後、幾度かにわたり日本からの計画移民政策が実施された歴史がある。

コロンビアへの計画移民政策は、コロンビアの文学作品が日本で翻訳されたことがひとつのきっかけになっており、他の南米移民の歴史とは異なり、コロンビアの日系移民の歴史はロマンチックなエピソードを持っているという点が特徴的だともいわれている。

1922年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)でスペイン語を学んでいた竹島雄三がコロンビアの詩人であるホルヘ・イサークス(Jorge Isaac)の恋愛小説『マリア』(※1)を読み、感銘を受け大学在学中に日本語に翻訳、機関誌『新青年』に連載を開始する。(※2)

『マリア』はアンデス山脈の麓にある大農場「アシエンダ・パライーソ(天国の荘)」を舞台にした青年エフラインと美少女マリアの悲恋物語だ。海外植民学校の夜学生だった島清、中村明、西国徳次、松尾太郎明らがこの『マリア』を読み、小説の舞台となったバジェ平原の牧歌的風景に魅了され南米雄飛会を結成、1923年にはその内の4名が農業実習生としてコロンビアに移住を行っている。その後コロンビアでの研修報告書を拓務省(現・外務省)に提出し、竹島らによってコロンビアの現地調査が行われた。その結果、日本政府と竹島が現地代理人を務める海外興業会社が移民開拓用の土地を購入し、準備段階を経て1929年には福岡県浮羽郡の3家族を含む5家族が入植を行い、合計3度の計画移民で24家族159人(うち148人が福岡出身)が集団移住した。

この際、竹島自身もコロンビアへ入植し、コミュニティの指導者となる等、一冊のコロンビア小説が持つ写実性や芸術性が翻訳され届けられることで、計画移民が拡大するひとつのきっかけとなったとも言え、延いては地球の裏側にある両国の関係性を繋いだとも言える。

当時の日本は大正時代にあたり、近代化に伴い自由恋愛が少しずつ花開いていた。恋愛文学ブームが起こっていたこともあり、竹島が翻訳したこの恋愛小説『マリア』が南米雄飛会に多大な影響を与えたことは容易に想像できる。竹島も、恋愛小説『マリア』の翻訳を通じ、日本政府が行う計画移民に希望を夢見たのではないだろうか。

このように、小説『マリア』という芸術作品と、それが翻訳されることで触発された彼ら南米雄飛会との関係の間に変容が生じたように。本来は翻訳不可能である芸術作品の翻訳によって生まれた交流が、コロンビアと日本との間で、人々の人生や政治を動かした例となっている。

本展では、芸術における翻訳がこのような重要な出来事を生んできたことに着目した。

この「翻訳【translate】」という単語には語源があり、「向こう側へ【trans-】」「運ぶ【latus】」という意味が内包されている。本展に出品する作品が日本からコロンビアへ運ばれ、展示されることで、南米雄飛会が『マリア』を読んだ時のように、「変容【transfiguration】」し、希望を感じることは可能だろうか。

本展はこの計画移民で入植した者がほとんど九州出身だったという観点と、南米雄飛会からの入植者になぞらえ、九州を拠点としている4名のアーティストを紹介する。幅広い表現や技法、制作の背景など、魅力的なアーティストの作品が、在コロンビア日本大使館協力のもと、Los Andes大学と共同運営する施設、日本センターで見ることができる。

竹島が『マリア』と出会ってちょうど100年。私たちも南米雄飛会が『マリア』で見たあの牧歌的風景を想いながらこの交流展を継続し、この関係が拡大していくその第一歩になればと考えている。

■参考文献

※1.ホルヘ・イサークス『マリア』武田出版,1998.
※2. 長谷川雄一『日本人コロンビア移民の父・竹島雄三の移民論』

https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/political/political_50_3/each/23.pdf

■展覧会情報

【展覧会名】Layover

【会期】8月29日(月)~ 9月30日(金)※作品の海外郵送の関係から日程は変更される可能性があります。

【時間】10:00 – 15:00(土日祝定休)
【会場】日本センター(Los Andes大学内)
【住所】Centro del Japón Universidad de los Andes Calle 18a No.0-07 Bloque CJ Bogotá, Colombia

【参加作家】(計4名)

・平川 渚(ひらかわ なぎさ)【平面/インスタレーション】
・生島 国宜(いくしま くによし)【絵画】
・加藤 笑平(かとう しょうへい)【平面/映像】
・宋 秀臣(そう ひでおみ)【写真】

コロンビア、日本、近未来
Layover展(ボゴタ会場)に寄せて

冒頭から私事で恐縮だが、2013年以降コロンビアを拠点として活動しキュレーターおよび写真家として当地における複数のアート/コミュニティープロジェクトに関わってきた立場から、強調しておきたいことがある。それは、日本ではその様相がほとんど知られていないコロンビアという国がことのほか親日的であり、多くの一般市民が日本(またはその延長として他のアジア大陸の国々)や日本人について友好的なイメージを抱いているという事実である。

上記は単なる個人的な印象の特権化でしかないのかもしれない。しかし曲がりなりにも人類学を学んできた人間として、前述のプロジェクトや日常を過ごすなかで都市や農村、ときにはそれらの場所から遠く離れた無人の荒れ地を移動し、さまざまな地域や社会階層出身の人々と交わるなかで、彼らの発話には相応の注意を払ってきたし、そのような他者イメージが形成された背景や文化状況などについても個人的な考察を加えてきた。ここ数年ずっと、コロンビア市民の多くにとって日本を含むアジア大陸の文化は、一方向的な異国趣味や、オリエンタリズムでは割り切ることのできない、クリティカルな対話に開かれた存在なのではないかと考えている。

おそらく重要なのは、コロンビアで人々が日本やアジアにいついて語るとき、彼らの発話において参照される時空間が、歴史的過去よりも圧倒的に現在や近未来であることが多いということである。このことは主に二つの観点から考えることができるように思う。一つは20世紀初め以降数多くの日系移民を受け入れてきたブラジルやペルーなどの国々と異なり、コロンビアでは、歴史的に日系やアジア系移民の流入やその政治文化的影響が限定的であり、21世紀の現在においても市民の日常におけるアジア文化の影響やプレゼンスが希少であるという事実。

もう一つはそうした過去におけるリアルな政治的緊張や利害関係、肌着レベルでのコンタクトの欠如が、ここ数十年に台頭してきた若い世代のアニメや漫画への熱狂と同期し、一般に流通する日本のイメージがクリエイティブな視覚文化-アニメや漫画、ビデオゲームなど―の圧倒的な影響のもとで形成されてきたという可能性である。これは現実的な顔と顔を突き合わせる関係性、具体的に言えば参与観察に基礎を置く伝統的な人類学の立場などからすれば、首肯しがたいものなのかもしれない。それにしても興味深いのは、前述のようにコロンビアで人々が日本について語るとき、過去よりも現在や近未来に光が当たるという現象である。そこには地上の多くの国々で、国際間の発話が過去の植民地支配や戦争の記憶に避けがたく囚われてしまうのとは異なり、底抜けの自由さと楽観主義が垣間見える。

これまで数多くの歴史家や批評家が指摘してきたように、20世紀の後半を通じ日本の文化的アイデンティティーについての語りは、一見煌びやかな経済的繁栄や憲法9条に象徴される民主主義の理想を謳歌する支配的言説の陰で、植民地主義や敗戦の記憶、東西冷戦構造下における政治的分断という複雑な歴史的伏線のもと構成=再構成を迫られてきた。そのような困難は、ルース・ベネディクト(1887-1948)の日本論に端を発する北米文化を映し鏡とした日本文化の「特殊」性の議論や、高度成長期の欧米と肩を並べる先進工業国としての自負、そしてバブル・冷戦構造崩壊以降次第に加速するクールジャパン戦略をはじめとする文化外交の強調などいずれの局面においても避けがたく潜在しているように思える。

たしかに北米や欧州の場合と同様コロンビア市民にとっても日本について語るとき大きな焦点の一つとなるのが『菊と刀』にその原型を求めることができるような、伝統文化や習慣における「特殊」性であるのには変わりがない。しかし特筆すべきなのはコロンビアでは多くの人々が、日本人の「勤勉」さや「真面目」さ、「集団主義」(悪い言い方をすれば没個性や融通の利かなさ)を、(しばしば「ラテンアメリカ的」な怠惰さや彼らが言うところの「身勝手」な自己中心主義と対比しながら)欧米的な合理的精神への遅延としてではなく、むしろかつての日本の経済繁栄や視覚文化の世界的な流行を裏打ちする「クール」なものとして語ることである。

上で素描したようなコロンビアというグローバル経済の周縁において日本のセルフイメージを見つめなおすことの可能性、および2016年以来コロンビアの各都市で開催してきた日本在住作家の展示で得た収穫を念頭に置きつつ、今回のLayover展では九州地方を主な拠点として活動する平川渚、生島国宣、宋秀臣、加藤笑平ら4人の作家の作品を展示する。いずれも間メディア性や作品が展開される場の固有性を重視する彼らの作品は、2000年代、 2010年代以降の日本における大都市をベースとする経済一辺倒の価値観の変容や、地域性や日常性への着眼、 現代アート理論 における脱中心化という流れの中で、美術作品の制作が他の創造的なジャンルと交叉し、地域コミュニティーとの関わりのなかで作り手と鑑賞者の関係性が大きく見直されてきた文脈と大きく関連している。

これは重要なことだが、アーティスト個人の制作活動と地域コミュニティーの日常性を結んでいくことはコロンビアのアートシーンでは1990年代以来議論されてきたアートの「民族誌的転回」よりはるか以前から試みられてきたことであり、それは経済的不平等や政治的腐敗など多くの社会的課題を抱えるラテンアメリカにおいてアートが作家の政治や社会的関心を表現する手段として捉えられてきたこととと無縁ではない。

こうした意味で今回のLayover展では、絵画、写真、参加型インスタレーションのほか、会期中に予定されているコロンビア在住作家とのコラボレーションのもと開催されるパフォーマンスなどを通じ、コロンビアの市民にこれまであまり知られなかった日本のアートの現状やそれを取り巻く日常空間を垣間見せるはずである。とくに、両国のアートコミュニティーにおいて、お互い遠い異国への興味を超えて、作品制作の社会的意義や、そうした活動が展開する両国の歴史的文脈の相違や共通の課題などについて、クリティカルな対話が生まれるきっかけになることを目指す。

本展のタイトルLayover(北米の長距離バスなどでは特に、ターミナルで乗客が一旦バスの外に出ねばならない長時間の停留などを意味する)が象徴するようにこの展示はSARS-CoV-2パンデミックによる世界的危機を経て2年越しに実現するものである。本プロジェクトがコロンビアと日本の現在や近未来について、建設的な対話を進める一歩となることを願う。

Layover: Salas de espera en el aire (Fukuoka)

Layover展(福岡会場)によせて

本展のタイトルLayover(ˈleɪˌoʊvɚレイオーバー)は一般的な英語で乗り継ぎや待ち時間などを意味する言葉だが、北米の長距離バスなどではとくに、ターミナルで乗客が一旦バスの外に出て待合室で過ごすことが義務付けられる長時間の停留を意味する。空路での移動が主流の米国をグレイハウンド社などのバスで旅すると、ルートによって途中の町や村で長時間のレイオーバーがあり、移動の総計は数日間に及ぶことすらある。

2008年、グレイハウンドバスで当時住んでいた中西部の大学町からシカゴまで旅した。その年はガソリン価格の高騰からかバスは混みあっており、しかも所要時間は自動車でフリーウェイを飛ばす場合の2倍以上にもなった。個人的な快適さや効率性、スピードを至上価値とする米国で、まるで地表を這いつくばるように、しかも多くの見知らぬ他人とバスというひとつの空間を共有しながら移動する世界が存在するということに軽いショックを受けた。

このLayoverという言葉に象徴されるような、出発地から直に目的地に至ることができないまどるっこしい状況 (それは台所事情から空路を利用できない一部の米国市民の困難とも重なる)、また旅行者の視点に立てばそうした条件のもとで陸路を緩慢に移動しながら人々や見慣れない風景を吟味する経験は、2020年のSARS-CoV-2パンデミック開始以降、何も陸路での長距離移動に限らず、空路の旅や、日常生活で近隣のスーパーへ買い物にいくことなど、日々の生活のあらゆる場面に現れるようになった。

こうした状況のもと、コロンビアと日本のアートコミュニティーの交流を目指す本プロジェクトも2019年末の構想以来数多くの中止や延期を余儀なくされてきた。また、輸送上の制約を前に参加作家らもメディアや作品内容、コンセプトの変更など、これまでにない挑戦を迫られることとなった。

いずれにせよ今回2年間のインターバルを経て展示される10人の美術家らによる作品は、ゲリラや麻薬カルテル、右派民兵組織などを巻き込み半世紀にわたって続く内戦や、度重なる反政府デモ、そしてそれらに続くグローバルなパンデミックなど複数の社会的分断の記憶がいまだ生々しいコロンビアという固有の土地で、各作家が個々の視点や生活体験を基に、そうした分断状況における他者への視線や政治的対話の遅延などLayover的とも呼べる状況についてリサーチを継続してきた成果である。

たとえばNicolás Francoの『風景のエラー』はアンティオキア、カウカ、ナリニョというコロンビア国内で人権活動家やコミュニティー指導者の暗殺事件が特に多い3つの県で撮影された観光地の風景写真を素材とした作品である。2002年のアルバロ・ウリベ(1952-) 政権誕生以降、政府は国内の左翼ゲリラを強硬に排除する政策を重要視してきた。その影響で観光客が国内を旅行する上での治安は大きく改善したが、エスカレートした政治暴力の影響で前線となる密林地帯や農村部において多くの人命が奪われてきた。

2016年には最大の武装組織であるFARCと政府の間で歴史上初の停戦が合意されたものの、FARC分派やELN(民族解放軍)はこの合意を拒否しており、地方では未だ多くの難民が発生している。この作品でFnrancoはバイナリエディタを使用しこれらの写真をまず数字の羅列に還元し、そこに内戦のさ中命を落とした人々の氏名をコード化したものを挿入する。デジタル画像にとってDNAともいうべきデータを改変された写真はグリッチ効果により風景としての読解が不可能なものへと変貌し、大都市での生活や観光産業の言説では不可視化される他者の存在を暗示するイメージとなる。

もう一人の作家Ismael Barriosはより身近な都市の日常から作品の着想を得る。Barrios はパンデミックによる様々な規制が報じられる2020年3月のある朝、自身が住むボゴタ市西部Engativa地区のバリオ(ネイバーフッド)のベーカリーで、その地区に長く根づく中華料理屋の店主と遭遇する。Barrios の写真は空前の世界的危機のもとで国境が次々と封鎖されるさ中、その存在は了解していながら言葉すら交わしたことのない一アジア人の、ディアスポラとして生きることの意味に思いを馳せたものである。

しかし同時に興味深いのは、これらのイメージが自宅待機命令が施行され社会生活のさまざまな局面でヴァーチャル化が進む中で意識の片隅に追いやられた他者の存在、換言すれば、隣人、とくに挨拶を交わすわけではないが、お互いその存在を認識しあうことでどこか安心できるような他者との関係の意味について語りかける点である。

Barriosの作品から約1年、パンデミックも2年目に突入した2021年4月28日、コロンビアでは各自治体主導のロックダウンが続く中、首都のボゴタを筆頭とする主要な町や村で増税に反対する大規模なストライキが発生し、大勢の市民が街のメインストリートや郊外の幹線道路を埋め尽くした。雨模様の空の下、政府や市当局が掲げる外出制限、ソーシャルディスタンスやマスク着用など公衆衛生のロジックを放棄して路上を埋め尽くし大声で叫ぶ人々の姿は、私には何がとても大事なことを伝えているように思えてならなかった。

その「大事なこと」が何なのかを詳述することは別の機会に譲るとして、確かなことが一つある。それは他者との連帯を確認しながら政治的な異議を申し立てること、そして我々アーティストが社会や世界というその全体像を掴むことがきわめて困難な対象に向かって何某かを表現するということは、身体性や一切の偶発性を排除したヴァーチャルな空間の内部ではほぼ絶対に不可能だということである。

それはおそらく個々人が「社会」なり「世界」について或るおぼろげな、一つの共通理解を形づくることができるのだとすれば、混雑する北米のバスの待合室や、Engativa地区の名もなきパン屋での経験のように見知らぬ、ろくに会話さえ成り立たないような他者の存在を己の身体性を介して了解することでしかなしえないからではないだろうか。今回の展示が、コロンビアという固有の地平を事例として、アートという実践や日常経験における社会的視点のありかたについて再考する機会となることを願う。

Takaaki KJ
Layover展共同キュレーター

展示作品(一部)

Eduardo Soriano エドゥアルド・ソリアノ
防護用具 
カラー写真によって編まれたオブジェ
2008

ボゴタ首都特別区立大学(Universidad distrital Francisco José de Caldas) にて美術を専攻。コロンビアのほかスペイン、アメリカ合衆国などでグループ展に参加。本作品はコロンビア太平洋岸地方に住む先住民族エンベラのコミュニティーにおけるフィールドワークの一環として制作された。コロンビアでは長期化する内戦により多数の市民が土地を追われ、先住民コミュニティーもまたこうしたプロセスの犠牲となった。本作はほんらいは一時的であるはずの移住地で、彼らが伝統に基礎を置く日常を再構成してゆくことのメタファーとして、従来の素材のかわりに短冊状に切り取られた同色の写真プリントを使用し彼らの伝統的な装飾品を編み上げたものである。写真は共同体とその外部―観光客や人類学者ら―のコンタクトに不可欠なメディアであり、本作はそうした外部文化との接触を経て先住民文化に新たな断面が加わる状況と、それにまつわる文化の真正性に係る言説に一石を投じるものだと言える。

Jonahtan Chaparro ジョナサン・チャパロ
入口II
「鏡のなかの鏡」シリーズ

写真(上記イメージは、ポリエステルに昇華転写プリントされたデジタル写真
ガラス板、プロジェクターを用いたインスタレーションとして展示されたもの)
2019

メキシコ国立自治大学(UNAM)大学院にて美術を専攻。メキシコ、コロンビアで個展を開催するほか多くのグループ展、アーティスト・イン・レジデンスプログラムに参加。文化人類学者ガルシア=カンクリーニによればラテンアメリカの大都市は植民地経験に由来する文化の異種混淆性(ハイブリディティー)を体現する空間として見ることができる。コロンビアの首都ボゴタも例外ではなく、北部を中心とした高層アパートメントやショッピングモールに象徴されるアメリカナイズされた生活スタイルと、南部を中心とするカトリック教会や数世代が親密な関係の下で暮らす「ファミリア」の伝統に基づく庶民の日常が同居しており、後者はしばしば
アーティストにとって自らのルーツを反芻するリサーチの対象となる。作者はボゴタ南部に住む祖父母の家を訪れ、半世紀以上前の様々なオブジェで装飾された居間の風景に接するうち、そこでは祖父母らが現在とは切断されたまるで鏡の向こうの世界であるかのような、過去の時間を生きているのではないかという仮説を立てる。本作はこの居間で撮られた300枚以上の写真を基に構成されたイメージを鏡に見立て、背後から光を投影することにより窓の向こう側の(半世紀前)の世界とこちら側に想像上の回路を開く、内と外のタイムラグを素材とした或る意味でパンデミックを予期するかのような作品である。

Nicolas Franco ニコラス・フランコ
風景のエラー
バイナリエディタによってレタッチされたデジタル写真
2019
フレキシブルなプリントサイズ

 

Valeria Montoya バレリア・モントーヤ
非=居住
写真 
2017
各30 x 20 ㎝

現在、ハベリアナ大学 (Universidad Javeriana) にて美術を専攻。2015年より複数のグ
ループ展に参加。8つの写真からなる本シリーズは危機に遭遇したときに頭部を隠すダチョウの習性にイン
スピレーションを得て制作されたものである。作品はボゴタのような大都市で犯罪の蔓延に象徴される貧富の格差やニュース映像に現われる社会の暗部に接しながら暮らさざるを得ない一般市民にとって、日々の典型的な行動様式についてのひとつのメタファーとしてみることができる。当然のことながら暗い現実に目を閉ざし個々の私的ユートピアに内閉しようとしても、現在世界が直面している社会的危機を回避したりそれらから身を守ることにはならない。

Santiago Andrés Torres サンティアゴ=アンドレス・トーレス
コスミック・ランドスケープ
ブラックライトで撮影された写真
50 x 50 cm
2019
ボゴタ出身。マドリッド、コンプルテンセ (Universidad Complutense) 大学で国際関係学を専攻、コミュニティーワーカーとしてコロンビア紛争地域で平和構築に携わる。2019年からアーティストとして活動を開始。コロンビアの重要な地下資源である石炭のディテールを背景に作家がこれまで制作してきた抽象彫刻作品をブラックライトのもとで撮影した写真作品である。多国籍企業による大規模な採掘の影響でローカルな炭鉱夫らが働き口を失い土壌が汚染されるなど、炭鉱はコロンビアのアートコミュニティーでは喫緊の社会問題としてしばしば取り上げられる。本作品は、「ブラックボックス内部への旅」と作者が語るように石炭という物質を惑星の地表に喩えながら原初的なレベルにおける人間にとっての地表という存在や、地球環境へのかかわり方への再考を迫る作品である。

Inauguración Transgresor@s en VeronaStudio

Transgresor@s

Hay que ser un héroe para enfrentarse con la moralidad de la época.
–Michel Foucault

Con la modernidad como proyecto “civilizatorio” impuesto en América Latina a lo largo del siglo XIX, se dio un proceso de dominio sobre el comportamiento de algunos de sus habitantes, quienes fueron discriminadas por sus orígenes y rasgos heterodoxos, y por lo tanto negadas la entrada al ámbito moderno, frente a la creación de reglamentos forjados para su disciplinamiento tales como constituciones, manuales de urbanidad y gramática, que han funcionado como un aparato de vigilancia y control.

Este modelo recayó sobre todo en indígenas, esclavos rebeldes, mujeres y homosexuales. Todas estas personas han debido ser “normalizadas” o “disciplinadas”, tal como lo señala la investigadora de origen venezolano Beatriz González Stephan cuando sostiene que … “La violencia de los castigos y el desenfreno de las pasiones debían reconducirse para construir el homo economícus” … La creación de redes de dominio con infraestructura pública tales como cárceles, auspicios, manicomios, escuelas correccionales, entre otras, fueron creadas con el objetivo de inmacular las calles de estos individuos.

En la actualidad, y después de 500 años de dominación eurocentrista en América Latina, cuestionar dicho disciplinamiento es una tarea compleja; como lo señaló Michel Foucault hace medio siglo, estas normas sociales han sido perpetuadas no solamente desde las reglas explicitas o infraestructuras tangibles sino también mediante la interiorización de un miedo generalizado a no estar acorde con ellas, fenómeno ampliamente observado durante la pandemia de SARS-CoV-2

Transgresor@s es un proyecto expositivo que reúne a artistas locales e internacionales de la escena contemporánea con la intención de mostrar a través de distintas propuestas una imagen especular de la sociedad actual, principalmente en América Latina, la misma que a lo largo de su historia ha presumido de ser “civilizada” pero que constantemente nos prohíbe acceder a ciertos pensamientos claves que rompen con las normas con las que se destaca la imagen del ciudadano inmaculado. Transgresor@s es un fenómeno que es abordado mediante la visión de un acto reflexivo que doblega la mirada eurocéntrica impuesta en el continente, así como el miedo en torno a las reglas que rigen nuestros comportamientos.

No solamente es el cuerpo, sino todas expresiones o representaciones que conllevan una crítica hacia ciertos estereotipos de comportamiento que son vividos, y vistos desde adentro y desde la distancia como actos poéticos, satíricos, o críticos.

Equipo curatorial
Linda Phillips
Takaaki Kj

 

 

Arte Viviendas – UPB Medellín hasta el 14 de mayo

ARTE VIVIENDAS
Muestra sobre un espacio de arte de Tokio en América Latina

Arte Viviendas es un pedazo de la escena artística en la ciudad de Tokio. Es una muestra que reúne 21 obras de artistas integrantes y expositores frecuentes de Art Trace Gallery, un espacio alternativo ubicado en una antigua fábrica de impresión del distrito de Sumida, uno de los antiguos barrios más populares de la capital japonesa.

Según Kuniyasu Sakaizawa, uno de los fundadores de Art Trace, la galería se planteó con el fin de generar un espacio que permitiera experimentaciones no restringidas para artistas emergentes y de mediana trayectoria en Tokio, una ciudad con escaso público educado para apreciar nuevas propuestas de arte contemporáneo, en la que la mayoría de los creadores desesperadamente buscan espacio para sus proyectos expositivos, si no está dispuesto a pagar un alto precio en las llamadas Kashigyarari o galerías de alquiler.

Un carácter crucial de Art Trace es su constante esfuerzo por mantener la convivencia entre artistas de diversas tendencias, quienes no necesariamente comparten una sola causa conceptual o ideológica. En vez de tratar de definir un lineamiento común entre los planteamientos de cada miembro, la galería ha procurado funcionar como un espacio abierto e imparcial para poder acoger propuestas cuya diversidad no se puede sintetizar desde una sola postura teórica.

En Art Trace, no existe ningún director. Cada uno de los artistas disfruta de los mismos derechos, con el compromiso de aportar su cuota mensual para cubrir los gastos generales (pago del arriendo y servicios), o en caso de desear disminuir su aporte, pueden laborar como recepcionista de la galería durante sus horarios. Cumplidas estas obligaciones, cada artista disfruta su tiempo asignado que dura un mes cada dos años, usando libremente la sala principal de la galería para sus proyectos expositivos o curatoriales.

A partir de su innovador sistema de convivencia, Art Trace ha sido un desafió significativo dentro de las corrientes del arte contemporáneo local y global, en las que la mayoría de los proyectos colectivos se construyen alrededor de una sola tendencia creativa u objetivo conceptual, y por lo tanto terminan siendo efímeros debido a su vulnerabilidad frente a los incesantes cambios en el ecosistema de la movida cultural.

El sistema de convivencia que se implementó en Art Trace, casi automatizado, quizás sea comparable a blockchain, la tecnología digital que procura generar una plataforma transparente y autónoma, sin depender del control de un único agente autoritario. Como si fuese un mecanismo autónomo, la galería ha sobrevivido durante los últimos 16 años sin que nadie tuviera que actuar como el director del espacio, experiencia que aporta una significativa inspiración para la comunidad artística a escala global.

Ubicado entre fábricas, comercios y viviendas antiguas del Distrito de Sumida, Art Trace Gallery se ha desempeñado como un centro de investigación y de reflexión crítica, cuyo trabajo se está mostrando por primera vez en América Latina. Esta exposición hace parte de un proyecto de investigación que estamos realizando con el apoyo de distintas entidades colombianas y japonesas, entre ellas la Universidad Pontificia Bolivariana, Corcumvi, Art Trace Gallery, Tokyo University of the Arts, entre otras, cuyo objetivo es promover un diálogo creativo entre los espacios artísticos emergentes en América Latina y Asia.

Takaaki KJ
Curador

Arte viviendas: 
Universidad Pontificia Bolivariana, sede Laureles, Medellín
del 31 de marzo al 14 de mayo, 2022 

Museografía: Catalina Tobón Restrepo
Corrección de estilo: Linda Phillips
Curaduría: Takaaki KJ

 

Transgresor@s : Convocatoria internacional de arte contemporáneo

Plazo extendido: Nueva fecha de cierre: Viernes Abril-29 11:59 PM
Click aqui para ver las bases

Transgresor@s es un proyecto expositivo que reúne a diferentes artistas de la escena contemporánea con la intención de mostrar a través de distintas propuestas una imagen especular de la sociedad contemporánea. Obras que han sido vetadas, malentendidas quizás por romper con los estereotipos convencionales en el campo del arte.

Arte viviendas — Muestra sobre un espacio de arte de Tokio en Colombia

ARTE VIVIENDAS
Muestra sobre un espacio de arte en Tokio

Arte Viviendas es una muestra que reúne 21 obras de artistas integrantes, ex integrantes y expositores frecuentes de Art Trace Gallery, un espacio alternativo ubicado en una antigua fábrica de impresión del distrito de Sumida, Tokio, uno de los tradicionales barrios populares de la capital japonesa. La galería fue fundada en 2004 por la Corporación Art Trace, entidad sin ánimo de lucro cuya actividad consiste en organizar conferencias académicas sobre temas relevantes para el arte contemporáneo y en publicar la revista Art Trace Press.

Una característica importante de Art Trace Gallery es su propuesta que niega suscribirse a ninguna uniformidad conceptual ni ideológica como espacio. Según Kuniyasu Sakaizawa, fundador de Art Trace, la galería se planteó con el fin de crear un espacio de arte abierto a experimentaciones libres en Tokio, ciudad con escaso público educado para apreciar nuevas propuestas de arte contemporáneo, en la que la mayoría de los artistas emergentes y de mediana trayectoria desesperadamente busca espacio para sus muestras, si no está dispuesto a pagar un alto precio en las llamadas Kashigyarari o galerías de alquiler.

En Art Trace Gallery, no existe ningún director. Cada uno de los artistas disfruta los mismos derechos, con el compromiso de aportar su cuota mensual para cubrir los gastos generales (pago del arriendo y servicios), o en caso de desear disminuir su aporte, trabajar como recepcionista de la galería durante sus horarios. Cumplidas estas obligaciones, cada artista disfruta su tiempo asignado que dura un mes cada dos años, usando libremente la sala principal de la galería para sus proyectos expositivos o curatoriales.

La convivencia entre artistas de diversas posturas en Art Trace Gallery, altamente sistemática y capaz de abarcar un amplio rango de expresiones artísticas desde la propia vivencia del artista, ha permitido muestras de obras de carácter experimental e interdisciplinar; en la mayoría de las exposiciones realizadas en Art Trace, el espectador puede presenciar los procesos de desarrollo conceptual y material de las obras y del proyecto expositivo, aspectos que pocas veces se exhiben en espacios institucionales como museos y galerías de arte comerciales en Japón.

Art Trace Gallery ha sido un espacio de experimentación e innovación, quizás comparable a blockchain, la tecnología digital que procura generar una plataforma transparente y autónoma, sin depender del control por un único agente autoritario. Como si fuese un mecanismo autónomo, la galería ha sobrevivido durante los últimos 16 años sin que nadie tuviera que actuar como el director del espacio, experiencia que aporta una significativa inspiración para la comunidad artística a escala global.

Ubicado entre fábricas, comercios y viviendas antiguas del Distrito de Sumida, Art Trace Gallery se ha desempeñado como un centro de investigación y de reflexión crítica, cuyo trabajo se está mostrando por primera vez en América Latina. Esta exposición hace parte de un proyecto de investigación que estamos realizando con el apoyo de distintas entidades colombianas y japonesas, Maleza Proyectos, Corcumvi, Art Trace Gallery, Tokyo University of the Arts entre otras, cuyo objetivo es promover un diálogo creativo entre los artistas contemporáneos en América Latina y Asia.

Takaaki KJ,
Curador

Corrección de estilo:
Linda Phillips

Montaje:
Yesid Beltrán

ON A VERGE ON A LOOP — Home party en Casa Echandía

      La libertad es la condición ontológica de la ética;
pero la ética es la forma reflexiva que adopta la libertad

Michel Foucault.

ON A VERGE ON A LOOP, es un proyecto realizado por cuatro artistas de origen filipinos Derek Tumala, Dex Fernandez, Ged Merino y Jojo Austria, quienes narran las experiencias en torno a home parties (fiestas en casa) o vivencias cotidianas percibidas por algunos artistas bajo las estrictas medidas de aislamiento durante la pandemia de SARS-CoV-2 en la ciudad de Manila. A partir de la declaración de la emergencia sanitaria en marzo de 2020, la administración de Rodrigo Duterte (1945-) implementó medidas estrictas para controlar la movilidad diaria de los ciudadanos, suspendiendo todo el sistema de transporte público en la capital.

Aunque estas políticas se justificaban en relación con las amenazas sanitarias a escala global, para muchos ciudadanos era no más que una añadidura a las vigilancias sociales que el régimen había venido implementando desde que Duterte tomó el poder en 2016. En medio de dicho creciente control social, algunos artistas buscaron diversas alternativas para no detener sus proyectos y la vida social de cara a cara, que solían tener en sitios nocturnos alternativos los cuales eran visitados frecuentemente por la comunidad Queer. Una de sus actividades principales era home parties (fiestas en casa) clandestinas, organizadas en apartamentos o residencias privadas.

De manera interesante, estos espacios de home party funcionaron no simplemente para disfrutar convivencias entre amigos y allegados de los artistas, sino también para exhibir temporalmente las obras de cada uno de ellos. Estas prácticas artísticas, mezcladas con el aire fiestero, a diferencia de las exposiciones convencionales dentro del campo del arte, han generado nuevos formatos de experimentar obras y propuestas artísticas – más exclusivos, íntimos e intensos, los cuales son reservadas para un número limitado de personas de cara a una nueva “normalidad”

Artistas participantes:
Derek Tumala 
Dex Fernandez
Ged Merino
Jojo Austria 

DJs invitados:
Cole Carter
Luis Pulido

Textos por:
Linda Phillips
Takaaki KJ

 

SIN HÉROES NI TROPAS

SIN HEROES NI TROPAS

Hace varios años un teórico de la antropología fue severamente criticado por argumentar la hibridad cultural latinoamericana con un tono admirador, para resaltar, según la palabra de sus oponentes, la ¨exótica¨ diversidad racial-cultural del continente.

Según estos académicos, hablar sobre la hibridad latinoamericana debe estar ligado con reconocimientos sobre el innegable legado, en el cual dicha diversidad o la necesidad diaria de convivir con el otro, tiene sus orígenes en una violencia, aquella que se ha venido perpetuando a lo largo de la historia de la colonización. Señalan que, la noción de lo híbrido debe entenderse como el producto de la implantación de los aparatos institucionales desde el eurocentrismo, así como las estructuras de la subordinación económica sometidas a los intereses del mercado, dentro del cual las entidades multinacionales juegan un rol decisivo ante el destino de la democracia de cada estado.

Teniendo presente el mapa actual del continente comparable a lo que el filósofo ruso Mikhail Bakhtin (1895-1975) nombró como heteroglossia, marcado por diversas rupturas y voces que narran desde divergentes contingencias sociales y condicionamientos históricos, ¿cuál será la posición de un artista contemporáneo quien se niegan a sumar a aquellos que creen en la magia de la inevitabilidad histórica? Si el rol de una crítica social consiste en re-imaginar el presente con base en una reflexión sobre la posible trayectoria a través del tiempo que hubiera tomado una sociedad en crisis, dicha re-imaginación se debe ejercer desde las vivencias de quienes han atravesado e interiorizado dichas rupturas, como el caso de la artista e investigadora Linda Phillips, quien reside y trabaja entre Caracas y Bogotá.

Distinguida por su formación y carrera pedagógica en el arte y la estética, la artista se vio involucrada dentro de la crisis económica que ha atravesado Venezuela desde el año 2013, desplazándose en el 2017 a Colombia por vías terrestres, un suceso que ha tenido impactos cruciales en su producción visual actual. Al igual que muchos de los inmigrantes venezolanos que dejaron su país natal después de la crisis, para la artista el primer reto al reanudar sus oficios artísticos en el nuevo terreno cultural fue enfrentarse con las adversidades económicas.

Desde su residencia en Bogotá, e inspirada en dicha experiencia del desplazamiento Phillips ha presentado una serie de proyectos importantes, uno de ellos siendo Abstracción Sensible (2017-2019) piezas de pequeño formato intervenidas con esmalte de uñas de diversos colores, y marcos irregulares.

Los esmaltes adquiridos por la artista se encuentran de venta en las calles, un producto de imitación que es consumido por mujeres de la clase más humilde. La artista ha identificado un elemento profundo de indagación en estos frascos de esmalte, la sustancia que diariamente adorna las manos de las mujeres del sector más popular. En Abstracción sensible, la artista transforma los esmaltes en el material clave para sus producciones creativas e intervenciones sobre lienzos, las cuales se pueden entender como una analogía del quehacer cotidiano de dichas mujeres, quienes cada día viven en una sociedad azotada por la constante crisis. Se evidencia que la interiorización de la estética y la autoimagen femenina promovida por las grandes marcas internacionales, no exclusivamente se entiende como el acto de sumisión, sino también de la implícita negociación identitaria.

En otra de sus series titulada El Parlache, la artista utiliza su cuerpo como una fisonomía de la violencia, o un sitio donde se entrecruzan su corporalidad y las huellas de agresiones contra la mujer en una sociedad patriarcal, expresadas en diferentes palabras tomadas del dialecto de la sociedad más marginal de la ciudad de Bogotá. Mediante el uso del formato instantáneo de la fotografía, la serie demuestra como dichas jergas transcritas sobre una superficie tangible, puestas contra el cuerpo femenino nos impactan de forma indeleble, al percibirse en relación con un contexto de intimidad, impacto que muchas veces se desconoce por el sector acomodado de la sociedad latinoamericana.

Con la consciencia forjada desde su experiencia en las teorías del arte así como el inesperado transito desde Venezuela a Colombia, países vecinos con los antecedentes ideológicos marcadamente dispares, las obras de Linda Philips nos conducen a una reflexión sobre uno de los orígenes claves de la sociedad actual e híbrida que vivimos día a día, o una realidad marcada no solamente por la diferencia y la diversidad, sino también por la inconmensurabilidad de voces y miradas, proyectadas desde las tácticas y conocimientos vivenciales para poder habitar en una heteroglossia.

Takaaki KJ
Curador